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石川清隆コラム

能(Noh)はNOではない -杜若(かきつばた)恋の舞-image

1.恋を描いた『能』

ラブストーリーは悲恋ものが多いですが、でもどこかでハッピーエンドにしたくなるもののようです。恋は迷妄かもしれませんが、誰しも逃れがたいものでもあるからでしょう。
在原業平の恋物語とされる、伊勢物語を題材とした「杜若」という能の演目は、シテ[主人公]とワキ[相手役]しか登場せず、構成が極めてシンプルです。
後半、シテの杜若の精が、在原業平の冠と、その業平の恋人であった二条の后高子[清和天皇の后 たかいこ]の衣を身に着けており、三河国八橋[やつはし]で、杜若の精に二条后と業平の思念が憑依し、業平と高子の身分違いで成就しなかった狂おしい悲恋を舞います。

2.能と本説

伝統芸である「能」は難しく、"もごもご"いうだけで何を言っているのかさっぱり分からんという人が多いと思います。僕もその1人でした。どうやら「能」は、ある程度の知識、教養を前提に創られているのです。

広く流布している説話・伝承を、能では「本説」といいます。
"「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」や、広く流布している説話・伝承に材を取った能の場合、本説と能の付き具合、離れ具合を楽しみ、より豊かなイメージの展開が期待される。" (注1) のだそうです。
すなわち、これら本説を知らないと、楽しむエッセンスが分からないということになります。
この能の本説のひとつ (注2) は、「かきつばた」の五文字を句の始めに置いた、

ら衣
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
をしぞ思ふ

の歌であり、『伊勢物語』第九段です。
業平が東国へと下る途中、旅先で都に残してきた人、つまり入内することが決まっていた高子と愛を交わした業平が、その思い出を漂泊の旅先で「からごろも着つつなれにしつましあれば」と詠い、皆が涙にくれるという話であることはすぐに分かります。

3.恋の舞

「杜若」には、「序之舞」という舞があり、草木の舞です。この能に「恋の舞」という小書き[演出]がつくと、序の舞の途中で橋掛かりに行って、シテが橋掛りに進んで、袖を被き、下の方を見込んで、しばらく動かない所があります。

誰が何を見ているのでしょうか・・・
恍惚状態のようです・・・

何を見ているのでしょうか。
「澤辺に匂ふ咲き乱れる杜若、そして水面に映る姿」だけではありません。さらに水乃底も知れない中、過去となった伊勢物語で語られた業平と、契りを交わした女性の思い出が、金粉のような蛍となって 天上まで乱れ飛びます (注3)
見ているのは誰でしょうか。
シテの杜若の精の目を通して業平が「唐衣」の歌を詠んで涙した時の、高子に対する想いを思い出しています。そして都で離ればなれになっていた高子が重なりあった視線で、当時の業平の自分に対する気持ちをしみじみ感じるのでしょう。
シテが業平の冠をかぶり、業平の恋人であった二条の后高子の衣を身に着ける意味の1つはこのようなことかもしれません。
そして、更に"道端の草につく露"の物語として高子との恋の物語が見えます (注4)

4.俵屋宗達 伊勢物語図色紙「芥川の段」 (注5)

業平と高子が見ていた"道端の草につく露"の物語の最高の情景は、この色紙絵に描かれています (注6)
伊勢物語六段「芥川の段」は、「・・・昔、男がいた。とても手に入れられそうもないと思っていた女をようやく盗み出し、芥川という川のほとりを、女を連れて逃げた。草の上に光る露を見て、「あれは何」と女は尋ねる(ほど、うぶで・・・)」という話です (注7)
この絵は「2人は、かたく1つに結ばれながら、夢の中にふわりと浮かんでいるかのように見える。」「2人は左への動きを暗示しながら画面中央で歩みを止め、互いにじっと見つめ合っている。」 (注8)
能「杜若」では、もはや過去の人となった業平と高子とが、杜若の精の中で、この情景を思い出します。2人の恋物語の最高のシーンなのでしょう。

5.悉皆成仏

杜若の精は舞い続けますが、その舞は、業平であったり、高子であるようにも見えます。最後に夜が白々と明けはじめると、杜若の精は「草木国土、悉皆成仏」(そうもくこくど、しっかいじょうぶつ] (注9) と唱え、業平、高子は、夜明けとともに消えていきます。
―草や木などの心をもたないものも、すべて成仏できる。女人も成仏できる。歌舞の菩薩の業平の功徳でしょうか・・・。

6.能(Noh)はNO?

昔、どうしても良さが分からなかった「芥川の段」を、古典に精通している友人が教えてくれました。その友人が「デートしない」と誘ってくれました。どこに行くのと聞いたら、「能(Noh)を観に行こうよ」と。当然「NO」とは言いませんでした。
その友人の解説付きで初めて見た能が、この「杜若」でした。

(注1):能を読む 『東北(とうぼく)』 覚書き   小山 昌宏(Webページ)

(注2):中世に成立した『伊勢物語』の注釈書類では、『伊勢物語』を在原業平の一代記と捉え、原典の『伊勢物語』にはない、業平が実は歌舞の菩薩や陰陽の神である業平は男女の仲を守る陰陽の神でもあり、「多くの女性との恋愛は神として衆生を助けるための行い」という説なども、中世の古注釈書によるものだそうです。(通説)

(注3):地謡 "ちぎりし人々の、人待つ女、物病(ものやみ)玉簾の。光も 乱れて飛ぶ螢乃、雲の上まで往(い)ぬべくは。"
この短い地謡の中に業平の恋物語が3話ほどのべられています。「人待つ女」とは、能『井筒』において『「人待つ女」有常女は、「今は亡き」業平の形見の直衣に身を包まれることによって神仏ではなく単なる「昔男」と一体化し、さらに、19の年に歌を詠み交わしたなつかしい井筒の水面をのぞいて、 一体化した自分の姿が業平その人であることを確かめている。水面に映った自分の姿は「女とも見えず男」であった。』
「方法としての異類 : 複式夢幻能形式確立過程への一視点」西村 聡
金沢大学国語国文 6: 46-56、1978年、P.53

(注4):地謡「思ひの露の信夫山。しのびて通ふ道芝乃、始めもなく終りもなし」『信夫山』は歌枕、「道芝乃露」とは道端の草につく露のように儚いものという意味。

(注5):江戸時代初期、伊勢物語図色紙「芥川の段」大和文華蔵

(注6):「本来この情景は、翌朝になって女を失ったと知った男が泣きながら思い出す、一種のクライマックスである。だからこそ、ここが第六段を象徴する場面として各時代の「伊勢物語絵」に描かれ続けてきたのである」(フィクションとしての絵画 P.200、千野香織、共著 ペリカン社 1991年)
上記色紙は伝俵屋宗達とされるが、著者は「宗達の自筆とみなされる」とする(同書P.197)

(注7):同書P.197「伊勢物語」第六段の内容
「昔、男がいた。とても手に入れられそうもないと思っていた女をようやく盗み出し、・・・・芥川という川のほとりを、女を連れて逃げた。草の上に光る露を見て、「あれは何」と女は尋ねる。・・、雷雨がひどい。男は人気のない倉を見つけてその中に女を入れ、自分は戸口を守っていた。ところが、鬼が出てきて女を一口に喰ってしまった。・・。男は身を揉むように泣き悲しんだが、どうしようもなかった。
白玉か何ぞと人の問ひし時、露と答へて消えなましものを

(注8):同書P.202

(注9):草や木などの心をもたないものも、すべて成仏できるという考え。当時、当然、女性は、そのままでは成仏できないとされていたが、女人も成仏できるとの内容が含まれていると考えるのが、この能の筋書から導かれると思われるが、西村聡は「業平の衣装を着ける物着は、結末の成仏に必要な変身」とする前掲書P.52。

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