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石川清隆コラム

狼と羊のイソップの言葉 -イソップの寓話-コラム21

1.にせ預言者

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」) (注1)
前のコラムで「偽預言者」について書きましたが新約聖書にもいくつか述べられているところがあります。このマタイ伝の記述を読んでイソップ寓話の「羊の皮をかぶったオオカミ) (注2) がすぐに想起されます。
イソップの寓話) (注3) はわが国では童話として「オオカミ少年」とか蛙が腹を膨らませ破裂する「蛙と牡牛」) (注4) とかいろいろな話で有名ですが、イソップの物語は、「もともと子供のために語られたものではない。イソップは、分からずやの主人や、自分をみくびり、いじめる人たちを説得する武器として寓話を作っている。その教訓も、抽象的な道徳ではない、権力を持たない弱者のために実生活の知恵、保身の術を説いている」) (注5) といわれています。

2.「救世主」レーニンの「イソップの言葉」

ところが20世紀になると"イソップの言葉"という表現は、反権力側の妥協という意味をもたされるようになりました。
レーニンの「帝国主義論」(1916年)の序文に出てくる旧ソビエトでは周知された表現です。"奴隷であったイソップ(アイソーポス)は、寓話のなかで、主人公の動物たちに託して彼の思想、人生訓を説いた。それは、支配階級の目をごまかすための一種の妥協であった"としてレーニンは、「ツァーリズムの検閲を顧慮して書かれた。」「帝国主義論」について以下のように表現しています。
"最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な――呪わしいイソップ的な――ことばで、定式化しなければならなかった。ツァーリズムのもとでは、「合法的」な著述のためにペンをとろうとすれば、あらゆる革命家がそれに頼ることを余儀なくされたのである。・・私は「奴隷の」ことばで語らなければならなかった。" (注6) と。
レーニンらの言うところの羊頭狗肉どころではなく羊皮狼魂の言葉であったことは前のコラムにも書いたところです。ソビエト体制で検閲は一層強化され、個人宅すら盗聴され、自宅内で自由にモノが言えるのは風呂場だけだったとか… (注7)

3.寓話的SF小説「運命の卵」(1923)の運命など

動物に仮託した幻想的でユーモアにあふれた寓話的SF小説「運命の卵」 (注8) という本があります。人々は"共産主義のもとでは、「合法的」な著述のためにペンをとろうとすれば、「奴隷のことば」で語らなければならなかった。"ようです。しかし「奴隷のことば」で語ったこの小説は他の著作とともに発禁になって、数十年間日の目を見ることはありませんでした。
ブルガーコフのこの小説は、動物学者のペルシコフ教授が、生命体の生命活動を増殖させる不思議な「赤い光線」を発見し、アメーバやカエルが弱肉強食の果て猛烈な勢いで増殖する。これを役人の要請で疫病で全滅しかけた鶏で試そうとして、凶暴な動物の卵に照射…、巨大化した獣が人間を襲い、人々が逃げ惑うパニックもののようになっていきます。
この小説はマッドサイエンティストとその末路を描くというよりも、「赤い光線」を浴びた獰猛な動物が人々を襲うという社会主義体制の行く末への予感まで感じられます。
しかしこの作品を含め体制へ批判的な要素を嗅ぎ取ったのでしょう。「科学に対する懐疑的な姿勢」とか言われて「科学的社会主義」と「全人類の明るい未来」を標榜する共産主義政権に睨まれました。
赤軍砲兵大尉であったソルジェニーツインは私信で検閲に引っかかり、暗にスターリン批判をしたとして逮捕され8年の強制収容所送りになりました。
詩人アンナ・アフマトーワはジダーノフ批判で「修道尼僧のようでもあり、淫蕩女のようでもあり、もっと正確にいえば、祈祷とまじりあった淫蕩を身につけた淫蕩女兼修道尼僧である」と名指しで批判され作家同盟から除名されたので、身内や友人に捧げた長編詩「レクイエム」を口伝で人々に伝えざるを得ませんでした。
「スターリン時代のロシアで、アンナ・アフマートヴァは『レクイエム』を書きながら、友人に、詩の1行1行を囁いた。そして友人が詩を暗唱すると、彼女は詩を書き記した紙を焼き捨てた」 (注9)
公的に表面上はきれいな社会主義的美辞麗句 (注10) が並んだ国家の中で表現の自由などはこのように抹殺されていました。
イソップがこの時代に現れ、新しい寓話を語ったらおそらく、崖から落とされるどころか…。

4.「イソップの言葉」「イソップ的言語」(Aesopian language)

ブルガーコフらがイソップの表現を意識していた、ショスタコーヴィチが「イソップの言葉」「イソップ的言語」(Aesopian language)を使っていると指摘を最初にしたのは、1993年にウラジミール・ザーク(Vladimir Zak)というNY在住の亡命ロシア音楽学者たちです。
1975年、ショスタコーヴィチの死去直後のソ連紙には「…ソビエト連邦のレーニンと国家の栄誉に輝く、(ソビエト)共産党の忠実な息子、卓越した人民と国家の象徴、生涯をソビエト音楽の発展にささげた人民芸術家…」という賛辞が並んでいました。そしてショスタコーヴィチの公式発言や公表されたエッセイなどは、ほとんどが体制賛美的でつまらないものです(多くは代筆されたとも言われています)。ウラジミール・ザークは、ショスタコーヴィチは"共産党の忠実な息子"と真逆の意見を言っているというのがこの"イソップの言葉"という表現なのです。 (注11)

5.手紙の中の「イソップの言葉」

ショスタコーヴィチの20代の傑作オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29は、1936年1月の「プラウダ」紙に「音楽のかわりに荒唐無稽」と題した批評が掲載され(プラウダ批判)以後20年以上に渡り上演禁止となってしまった。
1956年に検閲を意識した友人への手紙には「私がこれ(ムツェンスク郡のマクベス夫人)の改訂をやるのは劇場の為ではない。今の僕はこのオペラが舞台に掛けられるか否かという問題にはあまり興味がない。なにしろ、あれだけの醜聞と罵詈雑言にまみれた作品だからね。」 (注12) と書いています。
これが本音かというと、古い作品を改定しないことで有名なショスタコーヴィチがこの作品については何か所も改訂し、再演を望んでいたことは明らかなのですが、イソップの「取れないブドウを酸っぱいというキツネ」のお話 (注13) を想い出すと悔しがっている様子が思い浮かびます。
その手紙の名宛人グリークマンは再演審査当時の状況をメモにしていました。それによると当局側委員であったカバレフスキ-らは、"絶えず「音楽ならぬ荒唐無稽」の記事を引き合いに出してきた。彼らはオペラの音楽と罵言でいっぱいのこの記事を、一部始終照らし合わせて比較した。そしてその際に、これまで誰も記事を撤回してないのだから、記事の力と意義は消えていないということを繰り返し述べた。"…"カバレフスキーは「オペラは殺人者と淫蕩者を擁護するものであり、そのことで彼の道徳心はひどく傷つけられたこと、結論としてオペラは上演できないと述べた。」" (注14) と。
結局8年たって、1964年にこのオペラの改訂版は上演されたのですが…。

6.ショスタコーヴィチの証言の中のイソップ寓話

自分の死後に海外で発表するようにした「証言」には、本来のイソップ寓話が引用されています。ナチスとの戦争に勝利してスターリンは、自分への賛歌である『合唱付き』の四管編成の大オーケストラの第9交響曲を作曲することを望んでいました。
スターリンの期待はベートーベンのそれを凌ぐ「歴史的金字塔」的大交響曲であったようです。それに関し、"おそらくスターリンは、自分の才能と偉大さを一度も疑ったことがあるまい。しかし ヒトラーとの戦争に勝利したとき、スターリンは完全に気が狂った。彼は牛ぐらいの大きさまで腹をふくらませた蛙のようだった。ただ違いといえば周囲のすべての人々がスターリンをまさしく牛のようにみなし、まさしく牛に対する敬意を払っていたことだけである。周囲のすべての人々はスターリンを讃美し…"と述べている部分です。前半がイソップ寓話の「蛙と牡牛」の引用であることは明らかですが、後半は「神像を運ぶ驢馬」 (注15) のもじりでしょうね。

7.寓話作家イソップ

イソップはヘロドトスの『歴史』 (注16) に、実在の人物として名が出てきます。これがイソップ(アイソーポス)に関する最初の記述といわれています。イソップという人物が実在しなかったのではないかという人もいるようですが、「歴史」の中で、ヘロドトスは、ロドピスという遊女の話に触れて次のように書いています。
「ロドピスというのは、右に述べたピラミッドを残した諸王よりも遙かに後の人物で、生れはトラキア人で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポス(イソップ)とは朋輩の奴隷であった。」
イソップは奴隷の出身でありながら寓話作家とされています。
なおヘロドトスは"ロドピスという遊女は、女流詩人として有名なサッフォーの兄に身請けされたことを書いています。"イソップは「レスビアン」(由来はサッフォーがレスボス島出身)サッフォーと同時代の人であったということです。
もう少し後世の話では、元はサモスの市民イアドモンの奴隷だったが、語りに長けており解放されたという。その後は寓話の語り手としてとか、王の使者としてギリシャと周辺各地を巡った。しかし、妬まれてデルフォイの市民に殺されたとか。どうもお金をデルフォイに持ってきたが、市民たちの対応がおかしいとして、お金を送り返したのが原因だとか、デルフォイを小ばかにして、盗み罪(冤罪)に問われて、断崖からとびこまされたとか… (注17)
『対比列伝(英雄伝)』を著したプルタルコス (注18) もこの本以外にも色々なことを書いた人ですが、多くの著作の中でイソップについて述べています。

8.プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』 (注19)

「音楽の代わりの荒唐無稽」と批判されるなどして散々な目にあったショタコーヴィチは晩年、死後に発表された「ショスタコーヴィチの証言」(1979)のなかで、師匠であったグラズノフと対比して『対比列伝(英雄伝)』に言及しています。
"今わたしは、人々がわたしに抑制した態度をとり、あまり卑劣な行為に出ないようにしているのを感じている。 …私のほうががもっとひどい目に合うのはどうしてなのだろうか。いやプルタルコスはやはり偉大な人物である。『対比列伝(英雄伝)』は偉大な作品である。さまざまな種類の対比列伝のおかげで、わたし自身の人生のほうがもっとましなもの見えてくるのだから。非常に居心地のよい環境の中でトマト・ケチャップをまぶした穴子のようにわたしは泳ぎはじめている。たくさんの名誉だが ほとんど役にたたない名誉。" (注20) と述べています。
この言葉を多くの英雄・賢人が出てくる『対比列伝(英雄伝)』のことですから、一概にイソップに限ることはできないのですが、この列伝の底辺にある寓話的人生観をさしているようにも思えます。その「対比列伝」全巻を読むのは古い邦訳では大変で、あまり面白くないのですが、近年の抄訳は面白く、ローマ、ギリシャの英雄たちの記述にイソップ寓話をちらほら垣間見るように思えます。ギリシャの立法家ソロンやその周辺の記述は、明らかにイソップが見ていた世界なのですから (注21)
シェイクスピアは、『対比列伝(英雄伝)』をもとにローマ史劇たる『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』などを執筆したと言われています。

コラム21

(注1):
マタイ伝第7章15節
イソップ寓話は紀元前7世紀から多くの人の口と筆を通して編纂されたため、どの言葉がイソップ本人の物であるのか、或いは他の伝承なのか、さらにそれぞれが文字として編集されたときに、加筆されたか削除されたのか判別することは困難だといわれています。聖書とイソップ寓話の相互から何らかの影響があったといわれています。
(注2):
「羊の皮をかぶったオオカミ」
"ある時狼が、たらふく餌にありつくためには、姿から入って本性を変えるのがよいと考え、羊の皮を被ると、まんまと羊飼も欺いて、羊の群れにまじって草を食んでいた。
しかし夜になると、狼も羊小屋に一緒に押しこめられ、入口には柵がはめられ、小屋まわりがすっかり固められた。羊飼は晩飯にしたいと思い、包丁で狼を殺した。"(イソップ寓話集 、岩波文庫) 中務 哲郎 訳)
(注3):
現在のイソップ寓話集と呼ばれるものには、アイソーポスのものだけではなく、それ以前の古代メソポタミアのもの、後世の寓話、アイソーポスの出身地とされる(小アジア)の民話を基にしたものも含まれているといわれる。
イソップが生きていた紀元前六世紀の古代ギリシャでは「話術」「語り」による作家だった。口伝で散在しているイソップ物語を最初に編纂したのはパレロンのデメトリウスという人で、編纂の時期は紀元前四世紀の末であろうといわれています。紀元一世紀に入ると、ローマの解放奴隷ファエドルスという人がこれをラテン語に訳し、またバブリウスという人がイソップ物語を韻文で翻案した。これらの系統をひくたくさんの編者、文人の手によって書き移され、書き直されてきたイソップ物語の「写本」です。したがってイソップ物語には世界中に無数のバージョンがある。(イソップ寓話集 、岩波文庫 中務 哲郎の訳者あとがきの要約)
(注4):
"一頭の牡牛が葦の茂る水飲み場にやってきた。牡牛がどしんどしんと水の中に入っていく時に、若い蛙を泥の中に踏み込んでしまった。母蛙は子蛙がいなくなったのに気付いて他の子蛙たちに子蛙のことを尋ねた。
「どでかい怪物が、どでかい足で踏み付けたんだよ」と、一匹の蛙が言った。
「大きなやつだって?」母蛙はぷっと膨れながら「これくらいかい?」
「いや、もっとでかかった!」と子蛙たちは叫んだ。母蛙は、更に膨れた。
「これ以上に大きいなんてことはないだろう」と母蛙は言った。しかし子蛙たちは、もっともっと大きな怪物だったというので、母蛙はどんどん膨らんでいって、ついには、破裂した"。
(注5):
二宮、フサ (2006)『イソップ童話』(下) 偕成社、東京 (p.228)
(注6):
レーニンの帝国主義論 「帝国主義論」レーニン著は1917年刊。資本主義の最高の発展段階としての帝国主義の経済的諸特質を分析し、この段階を「死滅しつつある資本主義」「社会主義革命の前夜」であると論じています。
序文(抜粋)
"ここに読者に提供する小冊子を、私は一九一六年の春に・・・・この小冊子はツァーリズムの検閲を顧慮して書かれた。だから・・・いま、自由の日に、ツァーリズムの検閲を考慮してゆがめられ、鉄の万力によって圧しつぶされ締めつけられたこれらの箇所を読みなおすことは、苦痛である。・・・・労働運動のこの分裂は帝国主義の客観的条件と関連するものであること等々を、私は「奴隷の」ことばで語らなければならなかった。"
(国民文庫 帝国主義論)
(注7):
1948年、公式には事故死とされ実際は殺害されたユダヤ人演出家ミホエルスの葬儀の当日、ミホエルスの娘ナタリアはスターリンの最もの有名で恐れられて取り巻きラザール・カガノーヴィチ(事実上ナンバー2、1930年代と1940年代後半にはまだ影響力をもっていた)の姪ユリアの訪問を受けた。 ナタリアは「彼女(ユリア)はバスルームに私たちを導いた、ユリアは" 我々がプライバシーを持っていることができる唯一の部屋はここです。"と静かに言った "おじからの伝言をお伝えします。彼(カガノーヴィチ)は "(このことについて)誰にも、なにについても聞くな」と私に言った。実際にはそれは警告でなく命令でした。(Arkady Vaksberg  DSCH-list, 7 November 1999)
(注8):
ブルガーコフ 悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)
(注9):
背景から理解する世界文学百科事典 Vol,1
(注10):
「ソビエト共産主義-新しい文明?』 (1941年版)で「スターリンは独裁者ではなかった」と「客観的な検証」をしたというシドニー・ウェッブ、イギリスのフェビアン協会系の社会主義者(妻のビアトリスと共著)の本があります。
"1935年、滞在中にソビエト政府から提供された文献の研究をしていたソビエトの資料をイギリスの公式資料と同じように扱い、ソビエトト大使館に細部にわたる「エラーチェック」をさせた。彼らはその情報源となった文献のプロパガンダ的な目的に少しも気づくことなくソビエトの生活について虚偽の説明をおこなった。
彼らはスターリンが独裁者であることを否定した、というだけで十分であろう。
彼らはスターリンが組織的支配を行っていること・・・・。警察のテロル、飢餓、そして検閲、それらをすべて無視するか軽視するか、資本主義世界における慣行と似たものと描写した。"バーナード・ショウは"この・・ウエッブ夫妻の大げさで批判精神に欠ける文献を、「ソヴィエト国家にかんする初の、真に科学的な分析と賞賛している。"(「共産主義が見た夢」リチャード・パイプス p.144)
(注11):
1993年Shostakovich's Idioms", by Vladimir Zak, published in Yevreysky mir.  Zak discusses Shostakovich's public tactics of Aesopian protest
(注12):
グリークマンへの手紙 (『Story of a friendship』, p.57)
(注13):
イソップ寓話「狐と葡萄」手が届かない対象がある場合、その対象を価値がない・とみて諦め、心の平安を得る。また「負け惜しみ」を意味する。
(注14):
「わが父ショスタコーヴィチ」(p116~120) アードルフ (編),「カスチョールの会」 (翻訳) 
(注15):
ショスタコーヴィチの証言 初版 p.206 前半がイソップ寓話の「蛙と牡牛」の引用であることは明らかだが、後半の「神像を運ぶ驢馬」は、"男が神像をのせた驢馬と共に町へと向っていた。行き会う人々は驢馬の背の神像を見ると拝んだが、愚かな驢馬は人々が自分を拝んでいるのだと勘違いした。そして有頂天になって、一声大きく嘶くと、もはやこれ以上動かないと宣言した。男はこの勘違いを覚ると、棍棒で驢馬をどやしつけながら言うのに、「あのな、人間が驢馬のお前を拝む訳がなかろうが」"というおはなしです。
(注16):
ヘロドトス 歴史、岩波文庫 松平 千秋 訳
(注17):
「イソップの落ち穂拾い」 加藤邦宏 を参照しています。
http://www.kato-library.com/essay/ 別ウィンドウで開きます
(注18):
プルタルコス(AD46年から48年頃 -~127年頃)は、帝政ローマのギリシア人著述家、その本職はデルフォイの神官だった。
(注19):
『対比列伝』は、プルタルコスが著した古代ギリシア・ローマの著名な人物の伝記で『プルターク英雄伝』などと題される。人物や言動の似た二人一組のセットで各ギリシア人とローマ人対比させてゆく伝記が中心。
(注20):
ショスタコーヴィチの証言、邦訳初版p.48, 1980 (この原稿は死去する前年の1974年春までに成立していた )
(注21):
「ソロン(アテネの立法者)」の項「寓話作家のアイソポスは、たまたまクロイソスに招かれてサルディスに来て尊敬されていたが、ソロンが一向に歓迎されぬのを見て心を痛めた」とか。
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