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石川清隆コラム

コラム25「歴史が判断する」と叫ぶ「オオカミ中年」―雨はふるふるサンチアゴの町に―

1.聖書の奇蹟と観念論的忍術

新約聖書を読むと、水の上を歩くというイエスの奇蹟についての記述がありますが (注1) 、これは当時様々な異教の預言者らが奇蹟を起こしたとする中で、そのような奇蹟をイエスはいとも簡単になしとげたので、奇蹟は当然のこととして、より重要な言葉を福音書で伝えようとしたという見解があります (注2)
 ところが20世紀になると、「歴史は階級闘争の歴史である」というドグマから、宗教はアヘンであり、まやかしであるとする共産主義が一世を風靡していました。
 この水上歩行について、唯物史観に立つという白戸三平の漫画 (注3) には忍者の水上歩行術についてこう書かれていました。 「水上を歩くとき、一歩足を進める。その足が沈まないうちに、次の一歩を出す。コレを繰り返せば、沈まずに水上を歩けるのだ」と。
 この"忍者"、目をつぶると世界は消えるとでも思っていたのでしょうか。人間の体重で時速100kmで走ることが可能なら、エリマキトカゲのように水面をちょこちょこ走れるそうですが…。
体重に作用する地球の重力による落下(自由落下  (注4) )も前進する速度も、さらに水の表面張力で体を支えられるかというあたりも全く捨象するとこのような疑似科学的"唯物論的説明"ができるわけです。
まあ単純な初歩的物理問題でこれですから、「法則性がある」という複雑な政治経済事象についての説明はどうなのでしょうか…選挙による多数決という議会制民主主義を守りながらも多数が何等か所持する・所有したいと思っている国で、多数決で私有財産を廃止するというのも、かなり観念論的な嘘ですね。これを無理やりにやろうとしたのがチリのアジェンデ政権だったわけです。

2.なぜ「サンチアゴに雨が降る」ようになったのか (注5)

1973年 南米チリの9.11と呼ばれる、チリ・クーデター。
このクーデターは「世界で初めて自由選挙によって選ばれたチリでの社会主義政権」の正義を、「悪い大地主や富裕層や軍部、そしてアメリカのCIAを使った政治工作が繰り返されたが、軍部がクーデターを起こし武力で覆した」とよく書かれていました (注5)
しかし、マルクス主義シンパのアジエンデが大統領に就任する過程や政策の実行過程をみると、自由選挙だけで選ばれたわけでなく、また政権に就任後のアジエンデ急進政策も議会を一方的に無視した憲法に違反する独裁的性格を明確にもっています。
共産主義者が一度権力を握ると、いつ到来するかわからない理想国家のためにとんでもない財産収奪行為を憲法や議会を無視してやってしまうことがチリで一連の出来事で分かったように思います。
そもそもマルクスとエンゲルスは共産党宣言で「共産主義の理論は、一言に要約できるすなわち私有財産の廃止である」と言っているわけで、マルクスらはそれが歴史的必然と言ったのですが、これをレーニンが「何をなすべきか」 (注6) で、「労働者階級をそのままにしていれば、経済闘争のいわゆる労働組合主義に終始しそれを乗り越えるのは不可能だ、組織化されたプロの革命家からなる党によって労働者階級を指導しなければ達成できない」としたのです。

3.チリの「護憲」の「民主連合政府」の成立と崩壊

「アメリカ帝国主義の陰謀」とかいう前に、アジエンデやその周りにいた共産主義者がまさに「人民」から見捨てられることをどのようにやっていたのでしょうか。

(1)自由選挙で決まらなかった大統領と「護憲契約」
 チリでは1970年の大統領選の前には経済的失策からインフレ率が35%に達しており、このときの選挙では3人の主要候補者が互角に争った。保守派の対立候補は投票数の34.9%を獲得し、(社会主義と共産主義の)人民連合の統一候補でマルクス主義シンパのアジエンデは得票率36.3%で絶対的多数で勝利を収めた候補者はなく、大統領の決定は議会にもち越さこされました。当時のチリ憲法により、議会は勝者として得票数が最も多い2候補のうち1人を選択することになったのです。 まずここで起こったことは選挙後2ヶ月の間にアジエンデは保守派のキリスト教民主党と契約を結びました。その契約には「チリ憲法を尊重することを誓約させる一連の条項」があり、これにアジエンデが署名すれば、キリスト教民主党が彼を大統領候補者として支持する、という合意でした。
この条項には議会で制定された法律の順守や政治的多元主義(要は複数政党制、いろいろな思想信条の自由を保障すること)の尊重などが含まれていました。
これらは議会を通過した憲法保障法令に明示され、これによってアジエンデは大統領に就任したのです。アジエンデはマルクス主義シンパですが医師で理想主義者であったそうですので、この契約については当初は真摯な態度であったと思われます。  ここまでだと議会制を発展させて、理想的な社会主義国が実現できそうな雰囲気でした。日本共産党が「70年代の遅くない時期」に樹立する「民主連合政府」 (注7) の手本と喧伝したこともあながちウソではなさそうでした。

(2) 建前の後ろの本音 
ここまでは、議会で立法の重視、人権や財産権の保障について、アジエンデの背後にいた共産主義者たちもその本性を見せていません。共産主義者は自分たちが労働者階級を指導する唯一の前衛党で、いつできるのかわからないけど、自分たちは究極的な正義であり、搾取というドロボー行為によって富んでいるブルジョアジーから、いかなる嘘いかなる卑劣な手段(ドロボーではなく強盗)を使ってでも権力を奪取してもよいという確信を持っています。共産主義者の現人神の「偉大なレーニン」様はロシア正教教会の財産没収に関してこのように述べておられました。
「願ってもない好都合のしかも唯一のチャンスで、九分九厘敵を粉砕し、この先数十年にわたって地盤を確保することができる。」「…教会の財宝没収はどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行う。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない」 (注8) と。
アジエンデは、自分の改革は"やがて"国民の大多数の支持を得るだろうと思っていたようですが、重大な食糧不足が続いていたにもかかわらず生身の人間を何も食べないで生きていける霊的存在とでも思っていたのでしょうか。どうも現実に生きている国民を全く忘れていたようです。

(3) 具体的に執行された政策
"ソヴイエトをモデルにした「プロレタリアート独裁」をチリに導入することを決意していたアジエンデ周辺の共産主義者たちは「彼を無理やり左翼へと押しやりつづけアジエンデは自分の方針が失敗するにつれて急進的となっていった」といわれています。
アジエンデは大統領就任後、その"人民連合政府"における経済的職務を共産主義者に任せ、鉱業や銀行業、製造業の多くを国有化する政策を推進しました。これらは議会の立法によってではなく、それを無視した大統領布告によって突然制定されました。立法機関を尊重するといってやっていたのがこのような政策だったのです。
またチリ政府は企業の国有化と同時に農業の集団化も推進し、農地改革は国の総農地面積の約40%を占めていました。この目的のために政府は土地の差し押さえをし、ときには奨励さえし、その結果食糧生産の劇的な落ち込みが生じました。穀物の生産量はほぼ50%まで減少しました。チリには土地所有権があったはずですが…。(レーニンは1917年10月革命当初、労農同盟といいながら小作農に土地を与えるようなそぶりで、結局は土地を奪い取り、集団化政策へむいていったのです…。)
  これらの性急な国有化政策は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものでした。
しかも社会保障の拡大などの社会主義的な改革は、実効予算をともなわない絵に描いた餅のようなもので、結果的に年間300%を超えるインフレと物不足を引き起こしました。
アメリカ系アナコンダ社とケネコット社の銅山を没収したことで海外からの投資は全くなくなったのです(ソ連からの焼け石に水程度の援助はあったのですが)。

(4)人民の離反と議会と裁判所
国有化した鉱山労働者のストライキもあり、反対運動の最も重大なものは、小規模 な私企業であるトラック輸送業者が国営輸送会社による競合を目論む政府の計画に反対して組織したストライキだったのです。これらのゼネラル・ストライキは国の輸送機関と経済のほとんどすべてを2度にわたって完全にマヒさせました。
1973年8月、チリ議会下院は81票対45票で、アジェンデ政権は「全体主義体制の確立を目指し、告発のほとんどは社会主義政府によって権力分立を無視し、政府が行政府に立法と司法特権を私物化とし立法権を強奪し、国の法律を無視し、言論の自由を侵害することによって憲法に違反したこと」を決議しました。
最高裁はアジエンデが「政治的必要性を司法制度に優先させた」罪で彼に有罪判決を下し、チリ憲法には大統領の弾劾を定めた規定がなかったことからアジェンデ政権側は議会での2/3以上の議決でなければ辞任しないとし、議会下院は国軍に国法を復活させることを要請しました。
1973年9月のチリ・軍事クーデターはこの要請によってピノチェト将軍の率いるチリ国軍による、アジエンデの強制的罷免でありました。アジェンデは大統領府のモネダ宮殿で辞任と退去を拒否し、激しい砲爆撃のなかで自ら自動小銃を握ってアジェンデは自殺しました。しばらくはアジェンデは自殺ではなく、戦闘中に殺されたとか噂されていましたが…。
チリのクーデターにCIA陰謀説とか多国籍企業陰謀説など昔からあり、それらの要素を全く否定する根拠はないが、「人民のようにみせかけた、人民によらない、人民のためにならない」政権はこのように崩壊するしかなかったのかもしれませんが国家は一時的にアノミー状態になってしまいます。
ピノチェットの「体制は敗退した社会主義者と共産主義者に極めて残忍に扱う独裁政治であった」とか (注9)

4.歴史的妥協と「民主連合政府」を標榜する人々の動揺

1973年10月には、今から40年ちょっと昔のヨーロッパで、イタリアにかつて存在した西側諸国における最大の勢力のイタリア共産党は、貴族出身のベルリングエル書記長のもとで、当時のイタリアの与党でありキリスト教民主党(共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とする)との協力路線を打ち出し、結局成功しなかった連立政権の樹立を図る路線に転換したのですが、この背景について、1973年9月のチリ・軍事クーデターとの関係を指摘する人は少ないです。
また当時、日本共産党はアジェンデ政権を「70年代の遅くない時期」に樹立する「民主連合政府」の見本として喧伝していましたが…。
西側の共産党は、民主主義を武装蜂起で革命を起こすことが全く受けないことから、議会での多数を獲得し、レーニンのいう「プロレタリア独裁」を実現できると喧伝していました。しかも、わが国では「プロレタリア独裁」を"執政"とか"執権"とかに言い換えて…。このチリの政権が崩壊したことによって、西側の共産主義者に与えたインパクトはかなり大きかったことは容易に想像できますね。

アジェンデ政権崩壊直前、1972年には日本共産党で「新日和見主義事件」 (注10) が起こっています。民青中央幹部・都道府県幹部を中心として、日本共産党史上最大規模の「分派」粛清でした。この実態はいまだ議論があるところですが、闘争の判断基準を共産党の組織勢力や選挙での得票や獲得議席において「選挙に不利とみなされた大衆運動は無造作に切り捨てられた」というあたりが一番当たっているように思われます。
ところがこの事件の査問 (注11) で「お前、子どもがいるナ。民主連合政府になってナ、親父は反党反革命分子だということになったら、子どもはどうなるんだ。子どもの将来のことも考えろよ。オイ、吐けよ」という言葉も使われたそうです。このあたりに「民主連合政府」の本当の位置づけが表れているようです (注12) (注13)

5.「歴史の判断」

やがて、東欧革命(1989年)ソ連崩壊(1991年)が起きると、「社会主義国の基準」のようなものを設定し、あれは「社会主義国」ではなかったとか言い出しました。面白い表現なのでそのまま引用しますが”ソ連、東欧…の諸国をふくめ、社会主義を名のっていた諸国は、「社会主義をめざす国々」、「社会主義をめざす道に踏み出した国々」で「社会主義社会」に到達しえないまま、この崩壊にいたったことを明確にした。” (注14) そうなのです。
チリでのアジェンデ政権が崩壊した後、大規模な「左翼狩り」が行われ、拷問方法が極めて残酷で、虐殺や処刑が繰り返されることなどが巷間にも伝えられると、共産党は、どうも本気で「革命」を目指す態度を事実上放棄したように思えます。

「歴史が判断する」と叫ぶ「オオカミ中年」―雨はふるふるサンチアゴの町に―規約から「前衛」「社会主義革命」「階級闘争」などの言葉が消えていくのですが、内部でいろいろ利権ポストをめぐる「闘争」があっても、政権掌握を目指す運動をことごとく崩壊させて、いまでは青年組織の民青同盟も大衆組織の全学連も壊滅状態で、労働運動においても、ほとんど影響力を失い、議席も選挙ごとに長期低落下が続いています。
他方で、ソ連が崩壊するとイタリア共産党は1991年2月、最後の第20回党大会で左翼民主党(PDS、のちの左翼民主主義者)への移行が決定されマルクス・レーニン主義との断絶・放棄を公然と宣言し、先進国の共産党はすべて解党しました。
しかし我が国では、マルクス・レーニン主義との断絶・放棄をすることなく、いまでも名誉議長不破哲三は、スターリンについて「社会主義とも革命とも無縁な人物が、革命の言葉を使って話している。」とかいって大粛清について「"ドイツや日本の帝国主義と通じたスパイ・暗殺者の集団である"という罪をなすりつけ、それを裏付けるシナリオはスターリンが自分でつくるのです。…ディミトロフにしても、このシナリオの全体がスターリンの創作だとは夢にも思わないのです」とか善意の社会主義をスターリンが騙していたとか言っています。おまけに「その表と裏を見極めないと、本当の歴史は書けない、それが実感ですね。」とか。「歴史の判断」を謙虚に受け止めようとしない人たちのようです。
  歴史的二番煎じについて、マルクスは「ヘーゲルはどこかで、世界史上の大事件と大人物は全て、いわば2度現われると言っている。ただ彼は、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と付け加えるのを忘れた。」と言っています (注15)

6.ロシアの風刺詩

詩人サーシ・チョーヌルイ (注16) の詩は、20世紀初頭の「ユートピア」信仰を説く俗物論を風刺しています。

"子孫" サーシャ・チョールヌイ

私たちのご祖先は地下室に潜り込み、そして、お互いになんどもささやく
「時代は厳しい でも、もちろん私たちの子供たちは私たちよりもはるかにいいだろう」

その子供たちは育った
すると彼らも不安な時代に地下室に潜り込んだ

彼らはため息まじりにいった
「子供たちはみんな私たちが(いなくなった)後にお日様をおがめる」

いまも、いつものように、ひとつだけ慰めがある
「私たちの子供たちはメッカ("聖地")にいるだろう 私たちにはかなわないが」

なかにはいつになったらと予測さえする者も
あるいは、200年の内にと、あるいは500年と
その間は、悲しみにひたり阿呆のようにぺちゃぺちゃしゃべるのか

ガラクタは見栄えよくつくられ、世界はめかしこまれ、身繕いされて素敵に見える
200年のうちだと? くそくらえ!私はメトセラ(*1)か?
私は残骸の上のフクロウ(*2)のようだ こわれた神々の

私は友人も敵もいない まだ生まれていない子孫も

私はほんの少し明かりがほしい 私が生きている間だけ 私のために
仕立て屋から詩人まで、誰もが私の言っていることを理解する…

しかし、わたしたちの子孫
仮に子孫自らの運命にまかせたならば子孫たちは自分たちの闇を呪う
壁に自分の頭を打ちつけながら

*1旧約聖書  創世記969歳まで生きたという人
*2ギリシャの神々の残骸のうえのフクロウなのか。アテナ(戦いを司る女神、勝利の女神ニケを従わせている)は、夕方「知恵」をフクロウに集めさせる。アテナの肩に載っているフクロウはアテナ女神の使者・神鳥であるとされていた。

(注1):
マタイによる福音書 14:25-33
25節~
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。…弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。…すると、ペトロが答えました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」…イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進みました。…しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。…舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝みました。
ほかにマルコ福音書とヨハネ福音書にも記述があります。
(注2):
「イエスの実像を探る」をかなり読みました。
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/index.htm
(注3):
出典:白戸三平 忍術秘話
(注4):
一様な重力が働き重力以外の外力が存在しない状況下での運動。初速ゼロで運動を開始した物体の等加速度直線運動のこと。
(注5):
アジエンデ側のクーデターの危機を知らせる暗号が、ラジオによって流されました。それが「サンチャゴに雨が降っています!」でした。
(注6):
「何をなすべきか?」(1902年)レーニンは経済主義批判を主な目的として「何をなすべきか?」を書きました。労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものです。彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」という。
(注7):
日本共産党の"「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性"とやらについては、1973年の上田耕一郎著「先進国革命の理論」p261
その後、不破委員長(当時)は「私たちがこういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響を及ぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。」となり、しばらくむにゃ~~むにゃとなっていったが、
この頃は「21世紀の早い時期に、民主連合政府の実現を!」「日本共産党は、革新三目標ということを掲げ、国民の利益を少しでも反映する「よりましな政府」、暫定政権の樹立をめざします。」とのことです。
(注8):
1922年3月19日付「レーニンからモロトフ宛ての手紙」ヴォルコゴーノフ「七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで」(朝日新聞社、1997年)
(注9):
「共産主義の見た夢」p194
(注10):
ウィキメディア「新日和見主義」に概要。
(注11):
ウィキメディア「査問 (日本共産党)」を参照。
(注12):
川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」加藤 哲郎 川上氏および「分派」と疑われた人々の記憶に残された、「査問する側」の言葉として。
http://homepage3.nifty.com/katote/samon.html
(注13):
「 親父は反党反革命分子だということになったら、子どもはどうなるんだ。」という言葉の実例は、いわゆる"赤軍大粛清"で赤軍は壊滅状態になったが、1937年逮捕されたトハチャフスキー元帥は拷問にかけられ、自白を強要させられ反逆罪により銃殺された。トハチャフスキーの家族(妻ニーナ、母マウラ、弟アレクサンドルとニコライ、4人の姉妹、娘2人)も「陰謀に加担した」と見なされ逮捕。その後強制収容所へ送られ、うち妻ニーナと弟のアレクサンドルとニコライの3人は銃殺に処された。母マウラと妹ソフィアは強制収容所内で死亡。また12歳の末娘スベトラーナは自殺し、唯一娘の1人が大粛清を生き延びた。
(注14):
1994年5月18日付「赤旗」"日本共産党綱領一部改定案の提案説明"
(注15):
「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス・エンゲルス全集第8巻P.107
(注16):
サーシャ・チョールヌイ(Sasha Cherny、Саша Чёрный)は薬剤師のユダヤ人の家族でオデッサに生まれた。風刺詩人
1906年詩集「さまざまなモチーフ」を発表し、1908年帰国。第一次世界大戦中は前線に従軍。10月革命後、1920年に亡命。ドイツ、フランスでは他に子ども向けの作品や散文を書いた。1932年、亡命先のフランスのロシア人コロニーで永眠。 この詩はショスタコーヴィチの交響曲 第12番 ニ短調『1917年』作品112
すこし前の作品、「風刺(過去の絵) 」作品109、" サーシャ・チョールヌイの詩による5つのロマンス"の第3曲で使われている。
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