J.S.Bachについては、語る人が多く、特に素人愛好家が付け加えることはありません。
子だくさんのBachの中で、いまだ正当に評価されていない作曲家としてヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710年~1784年、大バッハの長男)がいると思います。
フリーデマンは、相続した父親の自筆譜の多くを困窮の余り売却するなどして散逸させてしまったと非難されています。しかし大Bachは、メンデルスゾーンが再発見して1829年に100年ほど忘れられていたマタイ受難曲 (注5)の公演をするなどして広めるまで忘れられた作曲家で、その自筆楽譜が肉屋の包み紙に使われていたという逸話も残っていますので、今さら彼だけを非難することはないと思います。
フリーデマンは、バッハの息子たちの中では最も才能に恵まれていたと評価されています。即興演奏や対位法の巨匠としても有名だったそうです。
しかし、ご存知のように父親の大バッハがいわゆる平均律の調性 (注1)の中で半音階まで駆使して、バロック形式の偉大な音楽世界を構築し完成させていました。すなわち、お父さん大バッハの、平均律クラヴィーア、オルゲルビュヒライン(オルガン小曲集)フーガの技法、カンタータ、器楽曲そしてマタイ受難曲などを思い起こせば、このフリーデマンが父親に匹敵する才能を持っていたとしても、このバロック形式で平均律の調性の枠のなかで作品を着想しても、父親の作品に近似してしまうのでしょう。
父親の「オルガン協奏曲BWV596」の自筆譜に、フリーデマンが自署を書き入れたことを、「父親の作品を自作だと偽った」と非難されていますが、それは「俺が作曲しても同じだ」という意思表示かもしれません (注2)。
フリーデマンが様々な音楽様式を模索して、不協和音なども使ってかなり自由な感情表現を試みていたのは、このあたりにあったように思います。
大バッハの曲は、対位法の世界で「音が必然的なところに、必要なだけきちんとある。」と言われています。その通りだと思います。フリーデマンの曲は、その音の調和が歪んだり、崩れたゆらぎがあったりと、感情表現がほとばしるような作風です。その表出した感情が、短命であったり、さまざまなバリエーションで展開したり…。
半音階にとどまらず、不協和音や転調自体をメロディーにして曲想が明暗入り混じるだけでなく、西洋音楽ではそれまでありえない邦楽で言う"間"のような突然の中断があったり、形式もいわゆるバロック形式から古典主義まで揺れ動いています。
初めてこの人の曲を聴いたのは20歳ぐらいの時でしょうか、ラジオから、ハープシコード協奏曲 へ短調 (注3)が流れてきました。大バッハの次男のC.P.エマヌエル・Bachの曲はややうんざりしていたので、あまり期待していなかったのですが、ところがどっこい…。
この第一楽章、追想が駆け巡るようなテンポの速い曲です。デモーニッシュな動機が繊細で翳りのあるロマンチックな表現で展開したり、変調による曲想の明暗を示したり、美しく淋しく不思議な曲です。「夢は枯野を駆け巡る」 (注4)というイメージでしょうか。この第一楽章は、ブランデンブルグ協奏曲5番のそれの短調版のような印象です。
第二楽章のチェンバロのソロのパートは、大バッハのゴールドベルク変奏曲の音世界を思い出します。そして第三楽章は華麗で繊細なリリシズムにみちた展開部が翳りのあるなかで、突然の中断のように終わります。
フリーデマンの曲の演奏レコード、CDは、以前は当たり外れが多く、曲が不安定なのか、演奏家が楽譜を読みこなしていないのか、何とも言えないことが多かったのですが、この放送の演奏は抜群でした。
彼は、別名「ハレのバッハ」と言われたそうですが、自らハレの教会オルガニストを辞しただけでなく、その後も職に就くことがなく、放浪の日々を続け、貧窮の末アルコール中毒で死去したと伝えられています。