石川綜合法律事務所

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石川清隆コラム

コラム28「歌って踊る」天動説と万有金力の法則

1.「平和への貢献」は高額賞金付きだった-スターリン平和賞

ソ連崩壊によって廃止されたレーニン平和賞。もともとは、1949年12月ヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を記念して、ソ連最高会議幹部会がスターリン平和賞「人類の平和のための国際スターリン賞」を創設したものです。人種・宗教をとわず国内外の平和貢献者に贈られると建前でしたが、主にソ連という国家、とりわけ社会主義・共産主義への貢献に対する褒賞の性格が強かったといわれています。 (注1)
これには賞状、金メダルと賞金10万ルーブルがあたえられました。

1954年のこの10万ルーブルという金額 いったい日本円でいくらなのでしょうか、当時ドルとの為替レートは、1ドル=4ルーブルだから 2万5000ドル、細かい計算方法は注をみてもらうとして (注2) 2億円以上という感じでしょうか?
最初にスターリン平和賞もらった「革新」政治家大山郁夫は、アメリカの新聞に「国税に半分以上税金として持っていかれることを恐れてあるスイスの銀行に全額預金し、引き出さなかったとか言われている」と書かれた (注3) 。他方、孫文の妻で中華人民共和国副主席であった宋 慶齢(1893年- 1981)は1950年このスターリン平和賞を受賞しているが、この賞金を基礎に上海に婦幼保健院を建設している。
スターリン平和賞の日本人で2人目の受賞者は「うたごえ運動」の指導者関鑑子(せきあきこ)でした。

2.うたごえ運動

「うたごえ運動」という合唱を中心とする「運動」がかつてありました。「歌ってマルクス 踊ってレーニン」と揶揄されたように共産党指導の文化運動だったのですが、現在でも「同志」たちによって『祭典』が行われているようですが、かつてを知る人には過去の遺物のようなものになっていますし、若い方にはなんだかわからないものになっています。
形式上「うたごえ運動」は、中央合唱団が1951年に民青(日本民主青年同盟。日本共産青年同盟をルーツとする)から独立することによって、共産党とは別なものということでした。もともと「青共中央コーラス隊」で関鑑子の指導と鑑子の娘の小野光子(てるこ)の協力の下に訓棟を重ね1948年青共創立二周年記念文化集会に出演した際に「青年共産同盟中央合唱団」と改称して正式に創立されたものでした。 (注4)   (注5)

そもそもこの運動、関鑑子(声楽家)が蔵原惟人(日本共産党の中央委員で、国民文庫の「ジダーノフ批判」の翻訳者の一人)の訪問を受け、文化面の大衆組織の形成などを要請され(注:これは前衛党の指示とおもいますが)はじめられたものです (注6)
「うたごえは平和の力 うたはたたかいとともに うたごえを生きる力」とかの標語や「大衆こそ音楽創造の主人公である」とはいうものの、その運動理念はいまひとつはっきりしていません。「うたごえ運動」は1960年代には急速に衰えたが、まともな音楽運動とは思えません。しかもこのような大衆連動には必要不可欠な「数の論理」だけでそれを支える理論の不在が指摘されるようになっていました。
指揮者の芥川也寸志は「・・・もっと理論が必要」「音楽的な高さを追究すべきこと、地方における指導者不足は欠陥、広く音楽専門家の協力を要請すべき」などと批判をしていてやがてこの「うたごえ運動」とは別れていった。

そもそも「終戦直後の1946年2月の日本共産党第五回大会では文化政策が綱領として決定されておりその文章を起草したのが、関鑑子を励ました蔵原惟人であるというのも重要であろう」 (注6) と指摘されています。 日本共産党は1951年に分裂し55年に統一を回復をしているのですがこの文化政策綱領は、そのままで「党は農民的および、市民的文化を…社会主義的文化の方向に導いていく必要がある」『文化サークルは民主主義文化建設の大衆的基礎』というものでした。
関鑑子は「大衆を歌声で指導する」と思っていたのでしょうか
なぜか「合唱曲、平和のうた、労働歌、ロシア民謡」などをレパートリーとしていましたが、ロシア民謡に関しては・・「シベリア抑留者の帰還と、抑留されている間にソヴィエト共産党に傾倒した音楽家・音楽愛好家たちの帰国が大きな役割を果たしていた・・チェリストの井上頼豊の帰還が一九四九年井上は〝うたごえ運動″との結びつきも人1倍強かったが、「合唱団白樺」と協力して、やはりロシア民謡の普及に貢献した。」 (注7)
1953年には彼の編集で『ソヴュート合唱曲集』が筑摩書房から出版されていました。

さらに井上頼豊は、歌詞を共訳したショスタコーヴィチの「森の歌」ことさらとりあげて"「森の歌」はこうして、苦しい矛盾にみちた社会のなかでよりよい生活を強くのぞむ大多数の人びとにその前むきの意志と希望に一致し、つながっている。・・・きく人歌う人に希望を与え人間どうしの理解と友交をそだてる" (注8) といい、これも現在ではレッドデータブックに登録されてもよさそうな『労音』(勤労者音楽協議会)との関係を模索し、「ロシア・ソヴィエト合唱曲集(音楽之友社)、ロシア民謡(理論社)を出版するなどしていた。

当時京都で紫明合唱団の指揮者で、1953年「森の歌」をわが国で初演した櫻井武雄は"井上頼豊氏から「森の歌」の話を伺い、その貴重な楽譜を拝見した私は、異常な興奮を覚えないわけにはいかなかった。・・・・この「森の歌」の音楽こそ当時の人々の心にいっそうの拍車をかけるにふさわしいとの感動を禁じ得なかったのである。"といって「そして当時おそらく日本に一冊しかなかった貴重なスコアを全部写譜することから作業は始まった。」 というが、このスコアの出版権 演奏権、翻訳権を買い取ったものかどうか明言しない。今と違って当時ソ連の著作物はわが国で著作権がなく要はただでもらったものだが、井上頼豊らが共訳して音楽之友社から出版された「森の歌 訳詞」は我が国の著作権が生じ、これの印税はもらえたはずですが、この点は何も説明がありません。

3.「指導のかわりの混乱」

どうもこの「うたごえ運動」は、戦後間もない、スターリン主義に基づく文化政策・文芸整風の中心的な指導者として、1946年以降、詩人のアンナ・アフマートワを手始めに文化人や知識人に対して抑圧政策を主導したジダーノフの路線に迎合したもののようです。
「ジダーノフ批判」、(始まりは46年のアフマートヴァらを批判する「ジダーノフの報告」)については、現在はこの「批判」自体が「形式」的で「荒唐無稽」なものであることは誰でもわかりますが、当時の共産党員にとっては「オリンポス山からの御神託」、「モーゼにあたえられた十戒」以上のものでした。48年のジダーノフの演説のところどころに「あらしのような拍手」という部分もことさらに翻訳されています。そして最後は「あらしのような拍手、全員起立」とまでこのような異常なから騒ぎを異常だと思わないから不思議ですね。
共産党員作家宮本百合子は1920年代後半のソヴィエトに留学しメイヘルホリド劇場などを鑑賞した経験もあるのですが「除村吉太郎氏の翻訳(注)で、私たちは・・・ジダーノフの報告をよむ機会をもった。」として
「ジダーノフの報告の前半は、主として、・・とアンナ・アフマートヴァの詩の批判に当てられている。一九三〇年ころ、ソヴェト市民に・・・「追いつけ、追いこせ」の二十五年間を可能にした。同時にまた、文化の面では、アンナ・アフマートヴァのフランス香水の残り香のする老いた桃色と紫色との詩にちょっと魅せられるような気分をも伴った。ソヴェトの美術・音楽の上にあるフランス美術・音楽の影響は顕著で、ショスタコヴィッチのような現代の才能でさえ、初期には混乱したフランスの近代音楽に追随していた。」 (注9)   (注10) とか書いてしまって、文才も感受性も高い宮本百合子でさえ、当時のソ連共産党の指示ないし指導の前には「ロボット的変身」をしてしまうのです。

関鑑子は、1956 年NHK「放送討論会」で日本経営者連盟の理事馬淵威雄から、「歌ごえ運動は共産党の文化工作だ。歌が国民のものになるのは大いに結構だが、知らずに歌っている人のために、あれはアカい運動にほかならないと忠告します」といわれると関は政治色を否定、「私は苦しい生活をしている青年に音楽の贈り物をしているのであって、私は歌のお店屋さんです。それを買った人がどう使うかは買った人の自由です」と応戦した。"が 実は彼女が、その発言によって共産党と関わる真実のところを隠し、誤魔化そうとしていることも、見え透いていた」といわれている (注11)

4.運動の資金源はどこから?

この運動の資金源についてはあまり明らかではありません。
こういう左翼的大衆運動はたいてい貧しい労働者からのなけなしのカンパ、出版物の売り上げを財源としているように説明しています。
しかし、スターリン平和賞の10万ルーブルの賞金をどうしたのか、説明はみかけたことがありません。
たしかに「歌集や機関紙の発行,合唱大会の運営,レコードの発売などを通じてうたごえ運動の普及に努め (中央合唱団の)音楽センターが発行した楽譜つきの歌集『青年歌集 第一集』53年の「青年歌集」第2編は第1篇を合わせて発行部数13万部を記録」するという (注12) 。このような歌集の利益は、一般的に直販なら5~6割、編集者ないし著者に支払われる印税は6~10%、一冊70円とするとざっと計算すると売上910万円のうち450万円は収益になるでしょうか。

現在うたごえ運動の拠点である「音楽センター」は東京新宿区の関の居宅跡に建てられたということですが、そもそもは、1948年7月 青年共産主義同盟中央委員会により青共中央音楽院として新大久保に設立されたもので音楽オルグ一期生を募集した (注13) 。1956年ごろの建物は「熱っぽい目をした青年が時には数百人ひしめいていた」という規模のものになっていたという、しかし音楽センターの建物が、愛好家の浄財ないしカンパでたてられたとして、土地は関鑑子が、新たに買い取ったものか・・・・?
スターリン平和賞の賞金10万ルーブルがここに使用されたか否かもわかりません。
ただ、この広大な建物が関鑑子の名義であったのでしょうか「関自身は10畳ほどのところで暮らし、娘の小野光子は合唱団員の寮の1室に住まわせていた。」という説明がわざわざなされていました。
なんでこのような回りくどい説明をするのかというと、共産主義は、人にねたみ・嫉妬をかきたてて、「憎悪」をその原動力とします。「いずれにしろ・・持参金を持ってアメリカへ亡命した何某の生活は、他の亡命者と異なり極めて恵まれていました。」とか人の恵まれた生活を常に嫉妬の対象としているので、わざわざこのような説明がいるのでしょう。

また当時、日本共産党には、ソ連共産党から秘密裏に多額の資金が流れ込んでいたことがわかっています。
「ソ連崩壊後公開されたソ連共産党から各国共産党に対する資金援助の"「特別ファイル」は日本共産党にも秘密基金から資金が渡っていたことを明記している。"これには1951年の10万ドルをはじめ・・63年に15万ドル、計85万ドルが供与されたことになる。「当時の85万ドルは、三十年後の貨幣価値では10億円以上に匹敵する巨額の援助だったといえよう。」といわれている (注14)
だが、当の共産党は「仮にそういう資金の流れがあったとしてもそれは党として要請したり受けとったりしたものではない」 (注14) という不思議な弁明をしているのでこの秘密資金が、選挙資金か大衆運動に使われたのかもよくわかっていません。

5.ソ連崩壊後20年たった『回想』

2011年になると「回想 音楽の街 私のモスクワ」という本が出版されます。著者は、関鑑子の娘の小野光子です。1953年 早大合唱団発足1周年記念発表会を指揮した小野光子は1956年に合唱団の寮の一室で暮らしていたはずが、1956年モスクワ音楽院に留学、3年間リヒテルの夫人でソプラノ歌手ドルリアクに師事したことが書かれています。
合唱団の寮には、いろいろな職場で合唱団を組織する専従合唱オルグという位置づけの人たちが、職場を辞めて研修生として入団していたようです(給与その他はわかりません)
この本によると海外渡航が現在では信じられないほど難しく、費用も高額であった1956年、小野光子は、ウイーンに行き、そこでソ連のヴィザを取得して入国したそうです (注15)
1960年に卒業した著者は、いったん日本に帰国。ここでなぜ留学できたのかは「東西の冷戦時代に、母がレーニン平和賞(注:本当はスターリン平和賞)を受賞したことも与って」としか紹介されていません。また「留学時代を終え、数年後さらにソ連国内を隈無くといっていいほど広範囲に180回の演奏旅行でまわっている」と紹介されていますが、1960年から65年まで日本で何をしていたのか一切書かれていません。
 「うたごえ運動」は大衆的な『サークル』活動を組織していくはずで、理論や専門家の必要性を否定して、指揮者芥川也寸志の反発を招いていたのですが、自分の子供に対しては非常に正直なのでしょうか(笑)しかも関鑑子はチャイコフスキー国際コンクール(声楽部門)国際審査員の一員を務めていましたが、娘の小野光子はその後、チャイコフスキー・コンクールの審査員をやはり4回務めたそうです。
こういうことを利権と考えたのか、ご褒美つきの国際平和貢献と考えたのかはわかりませんが、『受領は倒るるところに土をつかめ』 (注16) とはよくいったものです。

2013年になると「うたごえ新聞」(4月8日号)にこの小野光子と、に1960年に外務省の試験を受けて、大変な思いをして初めてレニングラード音楽院に留学したヴァイオリニストの前橋汀子との対談をのせた。しかし小野がどうして留学できたのかははっきりかいていません。
小野は、この間1970年に来日した、リヒテルの公演に合わせた「幻のピアニスト リヒテル」でリヒテル像を語る部分に一部登場するほか、同年「新ロシヤ合唱曲集 夜の鶯ーナイチンゲール」の訳詞、後の2001年チャイコフスキー歌曲集編訳など、大衆的な「うたごえ運動」と全く違う方面で活動していた。小野にとってこの選択はよかったものと思いますが、職場を去って専従合唱団員になった人たちの多くはどうなったのでしょうか・・
青年の能力と将来を摩耗させ、まさに実質的に奴隷労働のように搾取し成り立ってきたこの手の「運動」はそろそろ真摯に総括をしてもいいと思います。
うたごえ運動のかたがたは21世紀を迎えた今も、「核も基地もない・・、自由と平和のうたごえを大きく響かせよう」を合言葉に、60周を迎える運動にとりくんでいます。"といっておられて結構なのですが、そもそも大衆を指導する前衛党の指導にたいする取り組みとして組織されて、それ自体がボタンのかけ違いであったのですから、いまさら「株を守りて兎を待つ」 (注17) ようなことではないでしょうか。

(注1):
1956年フルシチョフがスターリン批判を行うと、9月6日にスターリン平和賞はウラジーミル・レーニンの名を冠したレーニン平和賞と改められた。それまでにスターリン平和賞を受賞した人々には返還が求められ、改めてレーニン平和賞が贈られた。
(注2):
1ドル=360円ならば900万円
消費者物価指数(東京都区部) 1,731.1
(平成24年)1,731.1 ÷ 301.8(昭和29年) =5.74
(注)戦前基準指数(昭和9年~11年平均=1)を使用
勤労者の年間平均所得
昭和29年(1954)・・34万円(2万8,283円/月) 平成24年 408万円
①昭和29年の為替レートは1ドル=4ルーブルすると賞金10万ルーブルは2万5000ドル。1ドルは360円であったので2万5000ドルは900万円
②平成24年の物価指数1,731. 昭和29年のそれは302、するとこれで貨幣価値は5.74倍になっている
③これを単純に掛けると5162万円
④為替レート1ドルも360円⇒100円となっているが
これも単純に360/100ではなくこれに貨幣価値の増加分5.74倍したものがドル換算したものであろうかすると1億8584万円
⑤ 所得からの実感からするとこの2倍 3億7000万円
ちなみに昭和22年の宝くじ特等は100万円
(注3):
こちらのページから
(注4):
関鑑子は、日本現代音楽協会設立推進の役割をはたしながら、その一方で、民主主義文化連盟の創立に参加して、労働組合や「民主的」団体(共産党の影響力の及ぶ大衆団体のこと)に革命歌や労働歌をうたう会の指導をし、「うたごえ運動」の中心となった「中央合唱団」の指導を任されたのです。
(注5):
中央合唱団が民青(日本民主青年団)中央合唱団と名乗っていた頃の機関紙
こちらのページから
(注6):
戦後の音楽 長木誠司 p87など
(注7):
戦後の音楽 長木P95
(注8):
井上頼豊「ショスタコーヴィッチ」1957年 p316
(注9):
政治と作家の現実 宮本百合子「文学」1947(昭和22)年3月号
こちらのページから
(注10):
ショスタコーヴィチの証言邦訳初版p214
"ジダーノフは、「音楽は美しく旋律に満ちていなければならない」といったとか、「ボリシェヴィキ党中央委員会は美と優雅を音楽に要求する」とジダーノフは発表した。このときから永久に音楽は優雅で調和のとれたメロディーに富むものを作らなければならなくなった。とりわけ歌詞のある歌にたいする真剣な注意が払われたが歌詞のない歌はただ唯美主義にふける個人主義者の倒錯した趣味を満足させるものだったからである。"
(注11):
ある学生サークルに見る戦後史(中編)吉松安弘 p241
(注12):
長木前掲 p97 「昭和23年夏ごろには、上北沢の6畳間から現在地(新宿区新大久保)に移って、バラックをたててそれでも手狭になったので」という経緯が正確ではありません。 また「全国の歌を愛する人たちから資金を仰いで現在の音楽センター(1956年4月当時の)が出来上がった」そうだ。「熱っぽい目をした青年が時には数百人ひしめいていた」という規模のものだが「関自身は10畳ほどのところで暮らし、娘の小野光子は合唱団員の寮の1室に住まわせていた。」という
(注13):
名越健郎「クレムリン秘密文書は語る」p90~91  消費者物価指数を為替レートにかけ合わせれば50億円超となる。
(注14):
志位談話(93・4・13)
(注15):
日本人の海外旅行は戦後も日本政府による強い規制を受け外国への旅行は業務や視察、留学などの特定の認可し得る目的が無ければならず、1963年(昭和38年)4月1日以降は現金とトラベラーズチェックによる年間総額外貨500ドル以内渡航が一般化された為替レートは360円。500ドルでも18万円。
(注16):
『今昔物語集』巻28「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」の逸話
"信濃守の任期を終え陳忠は、峠を過ぎるとき、乗っている馬が馬ごと深い谷へ転落した。しかし、谷底から陳忠の「かごに縄をつけて降ろせ」との声が聞こえ、引き上げてみるとヒラタケが満載されていた。再度かごを降ろし、引き上げると陳忠が、片手に一杯のヒラタケを掴んでいる。随行者たちが呆れていると、陳忠は「転落途中にヒラタケがたくさん生えている。宝の山に入って手ぶらで出てくるのは悔やみきれない。『受領は倒るるところに土をつかめ』と言うではないか。」と言い放った。"
(注17):
株を守りて兎を待つとは、古い習慣や過去に偶然成功した経験にこだわり、いつまでも進歩がなかったり融通がきかないことのたとえ。「昔、中国の宋の国の農民が畑仕事をしていると、兎が飛んできて、木の切り株につき当たって死んだ。それを拾って以来、農民は畑を耕すのをやめて、切り株の番をして兎を捕ろうとしていた」という故事から。『韓非子』
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