1 国宝・大日如来像 運慶作 忍辱山(にんにくせん) 円成寺
私がまだ十代の頃の話です。寝台特急の後ろに連結された普通車に乗り(タクシー利用なぞは、夢のまた夢)、史跡めぐりとしゃれ込んだけちけち旅行をした頃の思い出です。
ガイドブックで、"はずし"もしくは好きものが行く寺として、当時指定文化財のないこの寺が小さく紹介されていました。
奈良から、バスで柳生方面へ山間の砂利道をぬって行くと、円成寺に着きました。
右手、木立の中に木が数本倒れこんだ沼のような池があり、中の島があることから庭園の池跡ではないかと思われました(注1)。今にして思えば能「融」の荒れ果てた六条河原院もかくやという雰囲気で、寺への石段はガタガタ、桧皮葺き楼門風山門(注2)も傷みが激しくその様はチャイニーズ・ゴーストストーリーに出てくる荒れ寺風でした。
声をかけると、住職さん自ら舞台付寝殿造りの本堂(注3)に案内してくれました。
本堂の中はなんとなく埃りぽくて、床に数体の仏像があり、明らかに後世の作と思われるあまり出来がよくない仏像が本尊で、平安期の作風の阿弥陀仏(注4)がその脇に横向きに鎮座していました。
[床に鎮座している仏像を指して]これ絶対に運慶さんや、それにあの阿弥陀さん、平安期のものでは?定朝様式ですよね。」
でも最近奈良の先生方が調査されて、運慶さんの流れをくむ仏師さんの作かも、とおっしゃっていました。」
―大正年間に「運慶・・」とういう墨書が発見されていたことを後で知る。―
何年かしていくと、お寺が妙にきれいになっていました。大日如来像も運慶25歳の作として重要文化財となり、やがて平成になって尋ねると多宝塔がたてられ、ガラス張りの中にご鎮座されていました。[国宝指定は平成6年]
2 新薬師寺本堂 国宝[奈良時代]
円成寺を訪ねた同じ頃、亀井勝一郎氏の『大和古寺風物誌』に新薬師寺への道の印象がわび調に書かれて、仏像は土門拳の写真で紹介されていた新薬師寺をたずねました。土塀の上塗りがかなり剥落した小さなお寺で、中学生くらいの小僧さんが案内してくれました。
とお堂の中からところどころ見える青空を指しながら、説明してくれました。
堂内一杯に設けられた円形の須弥壇は現在では漆喰仕上げが施されていますが当時はたたきの土壇のように思えました。薬師如来坐像(注8)の周りの、簀子の上に、十二神将(注9)が鎮座されていました。
(注1):円成寺庭園[名勝](昭和50年発掘調査、51年(1976)に平安末期の庭園に復元改修を施工、環境整備を完了した)楼門前にひろがる苑池を主とした庭園は、藤原時代阿弥陀堂の前につくられる浄土式庭園を基盤としたものであり、寝殿造系庭園の配置を備えた舟遊式庭園として数少ない名園の一つと言われる。
(注2、3)桧皮葺き楼門 舞台付寝殿造りの阿弥陀堂(本堂)は共に重要文化財
(注4)定朝様式藤原和様の 阿弥陀如来坐像 (重要文化財)
(注5)小さな春日堂・白山堂も日本最古の春日造り社殿として国宝、春日造社殿の向拝を唐破風にした宇賀神本殿は重要文化財。
(注6)運慶のもっとも初期の作、25歳頃に刻んだ国宝・大日如来像大正の修理の際に、台座蓮肉部天板裏面から「 運慶・・」との墨書銘が発見された。しかし昭和40年代末まで重文指定などもされていなかった。高い宝髻を覆った宝冠、玉眼のみずみずしい顔面、緊張感に満ちた構成、この像は一見して彫像として高い完成度が伝わってくる。
(注7)新薬師寺本堂 国宝[天平時代]、ほかに鎌倉期の建築4件が重文
新薬師寺の本堂は明治年間に修理された時、奈良の代々の宮大工にとって、この建築の技法が理解出来なかったといわれている。
(注8)木造薬師如来坐像 (国宝・平安時代初期)
(注9)現存するものでは最古十二神将像、1体を除き国宝。奈良時代の塑像。