石川綜合法律事務所

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石川清隆コラム

日比谷の入り江日比谷の入り江 東京生まれの東京育ち(と言っても郊外ですが)の私にも、かねがね千代田区周辺の地形にはいろいろ疑問がありました。

1.将門の首塚

皇居の大手門のすぐそばに、この頃では"心霊スポットNo.1"とか言われている将門の首塚があります。ここを初めて訪れたのは、将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されている頃でした (注1)
首塚は、地番は千代田区大手町1丁目1番1号、東京の中心で広さは約90坪ほど、西側は内堀通り、お堀を隔てて大手門を経て江戸城本丸跡の皇居東庭園と神田駅~東京駅~新橋駅に至る、外堀通りを軸に南北に伸びる微高地との間にあります。
どうして京でさらされた将門の首塚がここにあるのかは不思議でした。

2.太田道灌の歌

江戸城本丸[現在、東御苑]辺りにあった太田道灌の江戸城で、道灌は

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

という歌を詠んだことは知っていました。しかし「なんで皇居が海に近いのだろう」という疑問を常々抱いておりました。
学生の頃は、月島辺りでも荒涼とした埋立地で人家が点在する程度でしたし、更にさかのぼると、小学生の頃は、浦安の辺りで潮干狩りをしていました(その辺りが海という感じでしたから・・・。)

道灌の時代は、京都と鎌倉の五山の長老級の僧侶に道灌が作詩を依頼したものが残っています (注2)
これらは洛(京都)・湘(相州鎌倉)五山の僧に依頼する資金力があることを示しており、それらの詩に描かれている情景も、"江戸湊を中心に、北は浅草観音の「巨殿・宝坊」の美は数十里の海に映えてそびえ、南は品川まで人家が続き「東武の一都会」をなしている""湊に出入る多数の船舶より、日々市をなす盛況」" (注3) であったそうです[1470年頃]。
太田道灌の江戸城については、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされ、道灌は、静勝軒と呼ばれる櫓も作りました。
これが多少修辞された表現とはいえ、家康が秀吉の命で関東に移封されて[1590年]、江戸城に入城した頃は周りは寒村で、石垣すらほとんどない城の建物へのけあがりが船板であったという寂れようであったそうです。この落差はなんであったのでしょうか。

3.江戸の前島と日比谷入り江

道灌時代の詩僧の漢文に「城の東に平川、江戸前島があり、平川の流れは曲折して南の方の海に入り、大小の商船や漁船は江戸前島周辺に群がり」と書いてありますが、これだけでは、現在の地形から風景を想像出来る人はいないでしょう。

江戸湾は、今よりはるかに内陸に入り込んでおり、神田から新橋にいたる微高地は、家康が江戸に入り、日比谷入り江を埋め立てる前は、半島状に海に突き出していた「江戸前島」で、現在首塚のある所には、神田明神があり、芝崎と呼ばれる海辺の村だったそうです。
中世までの江戸は、この江戸前島によって形作られた「日比谷入り江」を港として栄えていました (注4)
道灌の静勝軒と呼ばれる櫓は、江戸城本丸の三層の富士見櫓のある場所に作られていたということです。道灌は、この櫓から先ほどの和歌を詠み、当時、日比谷入江の海岸の松原がすぐそばまで続く富士山の眺望を楽しんでいたようです。

江戸湊の衰退を鈴木理生氏は、「道灌がほとんど独力で関東を席巻した武力の根源は、職業的戦闘集団=傭兵隊を利用した結果であった。その道灌が江戸湊勢力との協調・妥協の関係を失うと、たちまちに江戸湊の活況は消え去り、彼自身の滅亡に通じた」
「なぜ彼が江戸湊勢力に見放されたのかといえば、彼自身が貿易主催者としての役割を独占しようとした為とも、また逆に江戸漢勢力に対する安全保障能力が低下したことによるとも考えられる」としています (注5) 。 道灌が謀殺された(1486年)後の江戸城は、扇谷氏が38年間、北条氏が66年間江戸城を領有していましたが、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康は秀吉の命により江戸城に入りました。
道灌が15世紀半ばにいったん成功したのは、「通運業者との提携をもとにした勢力拡大法」であって、「扇谷氏で代表される旧勢力や戦国大名の北条氏もその方式に興味を示さなかった。これらの勢力は耕地としての領土の確保・拡大の面ばかりを重視した」というのが鈴木氏の指摘です (注6)

14世紀鎌倉時代の、遊行二世真教上人(時宗の僧)がこの芝崎の地で人々が飢饉、天災などに苦しんでいるのをみて、これは放置され荒れ果てた将門公の塚の崇りではと時宗自身の念仏道場として神田山日輪寺を建て、塚を管理し、延慶2年(1309)荒れていた社を修復し、将門公の霊を祀って「神田明神」としました。
江戸時代に日輪寺は浅草に、神田明神は神田山(駿河台)を経て湯島の現在地に移転。塚はそのまま有力大名割り当てられた敷地の一部となり、明治以降は大蔵省の敷地となりました。1921年9月1日の関東大震災で、大蔵省の庁舎は全焼、塚も崩れた為、塚の学術調査を行うことになり、地中から石の棺が見つかりましたが既に盗掘に遭っていた為、塚は取り崩すことになり、池も埋め立ててその上に仮庁舎を建設しました・・・・。
以後、この首塚をないがしろにすると崇りがあるという話が連綿と伝えられています。

4.江戸城本丸跡

皇居東御苑 (注7) は,この旧江戸城の本丸を中心に庭園として整備されたもので、道灌の富士の雄姿が眺められる絶景の地という面影はありません。1603年(慶長8年) 家康が江戸開府し、天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山[現、駿河台]を崩して日比谷入江を完全に埋め立てたからです。皇居東御苑は天守閣の台があるだけで、表御殿、大奥等の跡であることは立札でわかります。
本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で建築されていました。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の私生活生空間。ドラマなどで何度もリメイクされたように、大奥は将軍の正室、側室や女中が生活する空間でした。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られており、一本の廊下でのみ行き来が出来ました。
学生の頃、この天守台の石垣の上から南側を眺めながら、江戸初期の豪壮であったろう本丸御殿を、二条城や戦災で焼失した名古屋城御殿などと比較して友人と語り合ったものです。狩野派の障壁画がどんなものであったろうとか・・・・。また「道灌の静勝軒」をどこに建てたらあの歌が詠めるのだろうと漠然と思案したものです。

当時は忠臣蔵で有名な「松の廊」と書かれた、白い杭が立っていました。現在は、小さなパネルに千鳥が何羽も飛んでいる松林の絵が考証の上再現されています。
そして、現在では全体像はCG化され、立体的にみられるようになっています。
昭和61年(1986年)、東京国立博物館で、明治時代から所蔵されてはいたものの殆ど調査されていなかった、200巻以上にも及ぶ江戸城障壁画の基になる膨大な小下絵(こしたえ) (注8) が保管されていることが明らかになり、館外の研究者も参加する大規模なプロジェクトが立ち上がりました (注9) 。 江戸城本丸は1844年に焼失し、その翌年再建されました。その再建方針は、「1659年の造営時と同じ姿に戻す」ということだったようです。伺下絵が幕末期のものとはいえ、万治年度(1659)の狩野探幽を中心に制作された絵様が踏襲されているとのことです。
調査研究チームは、各下絵と、平面図に残されている建物・部屋との対応、制作意図の解明等を課題として、分析を進めましたが、現在ならばCG化して立体的に組直せば容易でしょうが、当時は写真を部屋も間取りごとに展開図化して、手で折り曲げて、立体化するという困難な作業であったようです。
NHK の紹介番組で研究者の一人が、全体像の紹介や、個別の同定作業の模様を実際にやってみせていました・・・。

5.東京の地形と文化

将門の首塚、江戸城本丸という皇居大手門周辺の2か所に思いを巡らしてもそれらの歴史や、形成された文化など取り留めもなく広がっていきます。これはどうしてなんだろうと思ったところ、ある宗教学者がおもしろい本を著していました。
「縄文時代の人たちは、岬のような地形に強い霊性を感じていた。その為にそこには墓地をつくったり石棒などを立てて神様を紀る聖地を設けたりした。」
「東京は決して均質な空間として、出来上がってなどはいない。それはじつに複雑な多様体の構造をしているが、その多様体が奇妙な捩れを見せた異様なほどの密度の高さを示している地点は、不思議なことに判で押したように縄文地図においても洪積層と沖積層がせめぎあいを見せる、特異な場所であったことがわかる」 (注10)
無神論者で、霊感もなく霊性なども感じることのない私でも、この表現は滋味掬(きく)すべきものと思います。

(注1):
NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』は、1976年1月~12月26日にかけて放送されたNHK大河ドラマ。第14作、原作:海音寺潮五郎(『平将門』『海と風と虹と』より):将門を加藤剛が演じており純朴で武芸に優れ、理不尽な事には毅然として立ち向かう将門は、官位を得るため京に上ったが猟官が不調に終わり、恋愛にも敗れ失意の中帰郷する。やがて、氏一族の内紛に巻き込まれ、次第に朝廷そのものへの叛乱の頭領として祭り上げられる。京から追討使が派遣される中、田原藤太、貞盛らの連合軍と寡兵を率いて戦い、流れ矢にあたり戦死していく真面目すぎる将門の姿は、今でも印象に残っています。
(注2):
正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九『梅花無尽蔵』など
(注3):
「江戸の川 東京の川」鈴木理生 井上書院P.91ほか
「洛(京都)・湘(相州鎌倉)五山の僧は、いわゆる五山文学における第一級の人々として知られているが、もう一つの側面として室町幕府の日・明貿易のための公文書作成や'貿易実務にたずさわった「経済僧」と呼ばれた人々でもあった」
(注4):
鈴木、前掲 P.92の読み下しは「江戸湊を中心に、北は浅草観音の「巨殿・宝坊」の美は数十里の海に映えてそびえ、南は品川まで人家が続き「東武の一都会」をなしていることを措写し、海陸のにぎわい,舟車の会すること他州異郡の比ではないこと。「城の東に平川,江戸前島があり、平川の流は曲折して南の方の海に入り、大小の商船や漁船は江戸前島周辺に群がり、平川河口には高橋(舟がくぐれる橋の意味)がかかり。湊に出入る多数の船舶より、日々市をなす盛況」
(注5):
鈴木 前掲P.91~92
「この時期には日・明貿易は中断しており、また室町幕府をめぐる政治的情勢も不安定であったため、京都に集中していた″文化人″たちは地方の実力者をパトロンと頼み、詩文の応需やら旅行などによって、その活路を見出していた。当時の道灌の経済的実力は、右に挙げた超一流の五山の長老たちを十分に引きつけるものをもっていたのである。」
(注6):
鈴木 前掲P.94
(注7):
皇居東御苑は,旧江戸城の本丸を中心に・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたもので,昭和43年(1968)から公開されている。
(注8):
障壁画のような大画制作に際して、施主が絵様を知るのは構図ではなく完成画の雰囲気をくみ取りにくい。
巻物の形態に仕立てられた小下絵ならば持ち運びも安易で、全貌も掴みやすい。
施主[将軍]はできあがった小下絵を見て何らかの注文をつける。
これを画家側からの呼称として(御)伺下絵といっている。
(注9):
『江戸城障壁画の下絵』(第一法規出版、1989年刊。ISBN 4-474-06205-1)にまとめられている。
展覧会図録「江戸城障壁画の下絵 大広間・松の廊下から大奥まで」東京国立博物館
『江戸城本丸等障壁画絵様 本文篇』 東京国立博物館編・刊 1988.11
『江戸城本丸等障壁画絵様 図版篇』 東京国立博物館編・刊 1988.11
(注10):
アースダイバー  中沢新一著 講談社 P.14~15
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