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石川清隆コラム

シェイクスピアの音楽「長い幻想の破滅」と「永遠になった数日」コラム24

1.「永遠になった数日」―ロミオとジュリエット―無音の音楽を聞かせる音楽

シェイクスピアの悲劇と言えば、「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」の四大悲劇が有名です。これらは人生における「栄光」「権勢」や欲望と、多くはフール(道化師)によって語られる現実との齟齬による破滅が描かれています。

しかし「愛」に関しての悲劇「ロミオとジュリエット」は主人公の2人は死んでしまいますが「愛の美しさ」が際立ちます。
「ロミオとジュリエット」の映画の中で有名でファンの多い映画といえば、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品です (注1) 。 ロミオがジュリエットを「光に輝き方を教えているようだ」と舞踏会で見初め、死に至るまでわずか数日です。その短い間に濃密に愛し合い、結婚し、結婚の立会人であった神父が与えた秘策がわずかに違って死んでしまう…。 (注2)

この映画を魅力的にしているのは、シェイクスピアのストーリーと独特の詩的なセリフがほとんどそのまま使われていることや、美しい色彩と映像のなかで主演のオリヴィア・ハッセーが輝いていることだけではなく、この物語の中からまさに湧いてくるようなニーノ・ロータ (注3) の音楽でしょう。
ニーノ・ロータの多くの映画音楽はその映画の核心を凝集したものだといわれています。 この舞踏会で歌われる歌 (注4) のテキストをどこから持ってきたものか分かりませんが、ニーノ・ロータは、この戯曲の中に「what is a youth~」というこの音楽を聞いたのだと思います。
そして、巡礼の手の代わりに唇で迎えてほしいというファーストキスはこの歌がバックに流れ、この曲の変奏は様々な場面で出てきます。有名なバルコニーのシーン、そして墓場でジュリエットが死ぬ絵のようなシーンでも…。

ネイティヴアメリカンの伝承で、青年が修練の旅の最後に勇者の物語をその墓の前で聞く…成人の資質を得て大人となった青年は、その勇者がよみがえって歌う姿が見え、歌が聞こえる…という話を昔聞いたことがあります。これもまさに物語のなかから湧き出てくる音楽だったのでしょう。
シェイクスピアの戯曲にはよく劇中歌 (注5) が書かれているし、実際に唄われたはず…。
劇中歌を含めた物語そのものにある音楽をニーノ・ロータは我々が聞くことができるように引き出してくれたようですね。

2.「長い幻想の破滅」―リア王 無音の音楽とともに―

シェイクスピアの四大悲劇のひとつ「リア王」。
おべっかをつかう長女と次女に国を譲った後2人に荒野に放逐されたリア王が、誠実が故に追い出してしまった末娘コーディリア(勘当された身でフランスの王妃となっていた)の力を借りて姉2人と戦うが敗れ死に至る…。
道化(fool)がリア王に向かって「あんたには生まれつき人が持っている名前以外は全部くれてやったんだ」と言うあたりに幻想の崩壊を予感させます。「ロミオとジュリエット」と違い、この破滅は数日では終わりません。
シェイクスピアの多くの戯曲の中でfoolとかclown(道化師)は、「悪意の無い人」で「純粋で無邪気な心から出てくる無意識の知恵」が自然から与えられています。シェイクスピアの戯曲でも喜怒哀楽に翻弄される権力者や取り巻きの客観的状況や、世の中の真の動向について語ります。権力も富も投げ与えてしまった元王は、単なる金食い老人として放擲され運命に翻弄されます。

コージンツェフ監督の映画「リア王」、この映画に音楽をかいたショスタコーヴィチは「リア王」の「長い幻想の破滅」について語ります。「「リア王」の中でわたしにとって重要なのは、不運なリア王の幻想の破滅である。…この幻想がゆっくりと少しずつ崩壊していくことを観察するとなると話は別だ。これは苦しい、病的な過程である。…幻想が消えてゆくのは、長いうんざりするような過程であって、歯痛に似ているかもしれない。…幻想のほうは既に死んだものであっても内部で腐り続けるものだ。悪臭を放っていて、そしてそれはどうしようもない。何もかも携えていくしかないのだ。」と。 (注6)

コージンツェフ監督は、「リア王」の音楽について、「とりわけ感動したのは、嵐の場面への導入部であった。リアは空に呼び掛ける。音は大きくなって、高まって、薄れる。そしてまた同じく再現される。そして、1つの音F(へ)音だけが残る。"あそこにはほとんど音がない。" とショスタコーヴィチは満足げに言った。"でもあそこは、音楽だらけだ"と。我々はただちに嵐の場面へのいかなる説明も廃棄した。悪魔の軍勢が「自由」の中に侵入し、勝ち誇って勝利を祝っている。」と言っています。 (注7)

「ほとんど音がない」のに「音楽だらけ」というのはなんなのでしょう。ひとつは、ショスタコーヴィチの作曲技法の進展にあると思います。
ヴィオラ奏者ドルジーニンは、弦楽四重奏曲第12番(1968年、 (注8) )について、「ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はハイドン、モーツアルト、ベートーベンの伝統の直接の系譜上にあるものであるが、ショスタコーヴィチは各楽器の独特の音質、音色を用いて音域を可聴域を超えてまで広げようとしていた。―特にチェロとヴィオラについては。」と言っています。 (注9)
ほとんど音のない領域を含めた音楽を、この時点でショスタコーヴィチは模索しているようです。

ショスタコーヴィチは、第12番(op133)と13番の四重奏曲(op138)の間にヴァイオリンとピアノのソナタ(op134)、交響曲第14番(op135)とコージンツェフの映画「リア王」の音楽(op137)をかいています。
そして13番の四重奏曲でヴィオラが始まり、演奏する旋律の最初の和音と最後の音は変ロ短調に基づく音で、ここでショスタコーヴィチは全音階と12音階の相互転換、調和という問題を完成させているのではないでしょうか。
13番のヴィオラが演奏する旋律の音列は12番でチェロが演奏する旋律に似て4つの楽器で持続されて演奏される音符の連続は、ぼんやりと迫りくる悲しみの足音のようです。このあたりは、「リア王」に用いた素材を補強しています。 (注10)

では、シェイクスピアの音のない音楽はどのように聞こえるのでしょうか。
ショスタコーヴィチは言います。
「シェイクスピアの悲劇は音楽に満ちあふれている。」
「戯曲を読みながら、その音楽に耳を傾けている」
「シェイクスピアはなんと天真爛漫であったことか。良心の呵責、罪の意識、その他。
激しい苦悩の数々。」
「子どもと話すとき言葉はまったく重要ではない。重要なのは言葉の背後にある共通の雰囲気、音楽である」 「純粋に音色を聞いているのである。シェイクスピアの場合もそうである。シェイクスピアを読む時、わたしはその流れにすっかり身をゆだねている。 (注11) 」と。

また、「…映画音楽を作ることに私は多大なエネルギーと時間を費やしてきた。30以上の映画に音楽を書いて、中にはかなり良いものもある。コージンツェフやアルンシュタムのような映画監督のおかげかもしれない。彼らは音楽の映画における役割を単なる随伴物ではなく、映画の核心と主題を明示する手段と考えていたから。」 (注12) とも語っています。

ではどのように表現したのでしょうか。
一例として、「シェイクスピア自身、音楽をたいへん愛していたようだ。「リア王」の一つの場面にわたしはいつでも感嘆する。それは病気のリア王が音楽で目を覚ます場面である。」と言っています。 (注13) これはリア王「第四幕 第七場 フランス軍の露営地の天幕。」だと思われます。 (注14)

―ベッドで眠るリア。静かな音楽の演奏。コーディリアとケントと医者が入場
医者:  近くへお寄りください。音楽をもう少し大きく。
コーディリア:  おお、お父上様、回復を司る神が わたしの唇に薬を塗り、その接吻が姉たちが負わせたお父様の傷を 癒されんことを・・・・。

映画「リア王」では、野外に寝具にくるまれたリアが、コーディリアが介護するセリフはそのままで、foolが静かだが物悲しい旋律で縦笛をふきながら近づいてくる…。
映画リア王の音楽をハリウッド的なイメージソング、伴奏とか標題描写的音楽と思っていると"ぶつ切り効果音"のように感じるのかもしれません。ミケランジェロが大理石の塊を見るとその中の彫像が見えたように、ショスタコーヴィチにはシェイクスピアの悲劇を読んでいると、その中の「音楽」が聞こえたのでしょう。そのように聴くと、映画「リア王」の音楽はコンテックの流れの中で画面と名台詞と音楽がマッチして一貫して流れている音楽だと理解出来るのではないでしょうか。

3.音楽がシェイクスピア映画の核心と主題を明示する2つの方法

ニーノ・ロータは物語から湧いてくる音楽を形にし、ショスタコーヴィチが言葉の背後にある共通の雰囲気や音楽に楽器を足して、あたかもムソルグスキーのボリス・ゴドノフの管弦楽を編曲するように作曲したのでしょうか。
「およそ音楽は人の心から生まれるのである。人の心が動くのは、外界の物が動かすのであり、物に感じて人の心が動き、それが音声に現れるのである」といいます。 (注15)
これは物語の構造から来るのではないでしょうか。

「ロミオとジュリエット」は、若い2人は現実を見ています。そしてそれを超えようとする夢も。
有名なバルコニーのシーンのジュリエットのセリフ「ああ、ロミオ、ロミオ! なぜあなたは、ロミオなの…」に続くセリフ、

「わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくてもあなたはあなたのままよ、モンタギュー 。―それが、どうしたというの? 手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、他のどんな部分でもないわ。ああ、何か他の名前をお付けになって。名前にどんな意味があるというの」 (注16)

この物語に真実を語る道化(fool)は登場せず、せいぜい卑猥で楽しい狂言回しのマキューシオが登場するだけです。

「リア王」では、王は幻想を見ていて、やがて自分を裏切った娘に言います。
「お前が我が子の姿で現れている様は海の怪物の姿よりも恐ろしい」と。 (注17)
誰に向かってしゃべっているのでしょう。
裸同然で荒野をさまようリア王は、地位や権力や富という虚仮(こけ)に覆われて、真実が見えなくなっています。一切を失って荒野をさまようことによって、リア王は初めて幻想が崩壊していることに気が付きます。
すなわち言葉の背後にある音楽は、現実が奏でる数えきれない数の声部のポリフォニーなのでしょう。
ゼフィレッリ監督の映画「ロミオとジュリエット」も、コージンツェフ監督の「リア王」もシェイクスピア戯曲の映画をしては頂点にあるように思います。
ニーノ・ロータ(1911年- 1979年)はイタリアの作曲家で、フェリーニの映画のほとんどと、150本以上の映画に音楽を付けています。ロータは、映画音楽は趣味にすぎないと言っていたそうですが、クラシック作曲家として音楽のアカデミックな教育を受け、メロディも魅力的、ハーモニーや対位法、管弦楽法 (オーケストレーション)も優れていると言われています。彼のピアノ協奏曲ハ長調は、"ショスタコーヴィチとプロコフィエフの回想"として作曲されたといいます。随所にショスタコーヴィチとプロコフィエフのピアノ曲の主題、旋律が出てくるのです。

(注1):
原題『Romeo and Juliet』1968年製作・公開されたイギリスとイタリアの合作映画
この映画は最後の墓場のシーンとか原作に変更があるが、セリフのほとんどが原作のままである。
(注2):
『ロミオとジュリエット』は、ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』(『桑の木』)を元にしたウィリアム・シェイクスピアによる戯曲。概ね1595年前後と言われている。
(注3):
ニーノ・ロータ(Nino Rota、1911年- 1979年)は、イタリアの作曲家ロータ自身は、本業はあくまでクラシックの作曲であると言っていたよう。
「ロミオとジュリエット」は名曲だと思います。
(注4):
Theme music:「What Is A Youth」作曲:Nino Rota(ニーノ・ロータ) 歌:Glen Weston(グレン・ウェストン)
(注5):
シェイクスピア劇の劇中歌に、シェイクスピアの同時代や少し後のバロックの時代の作曲家が曲を付けた歌の数々がある。シェイクスピアの時代の劇場ではリュートの伴奏で歌われたという。
(注6):
ショスタコーヴィチの証言 改訂文庫本p.183
(注7):
ウイルソン Shostakovich Remembered(p.480~1)コージンツェフ全集から
(注8):
弦楽四重奏曲第12番変ニ長調O p.133(1968)この変二長調の弦楽四重奏曲は、フラット記号が5つも付く調性
(注9):
ウイルソン p.500
(注10):
ステファン・ハリス(Stephen Harris)のWeb解説を要約
(注11):
証言 改訂文庫本p.186~7
(注12):
ウイルソン p.482 リトヴィノーヴァの寄稿
(注13):
証言 改訂文庫本 p.187
(注14):
Act 4 SCENE 7. A tent in the French camp. LEAR on a bed asleep,"
(注15):
史記 楽書第二 ちくま学芸文庫
(注16):
新潮文庫『ロミオとジュリエット』中野好夫訳
(注17):
「 More hideous when thou show'st thee in a child Than the sea-monster!」 ikawa-law.com/column/index.html
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