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石川清隆コラム

「ポチョムキン村の青ざめた馬」「ポチョムキン村の青ざめた馬」

1.ドストエフスキー「悪霊」 (注1)

ドストエフスキーの長編小説『悪霊』(あくりょう)、は、自国の虐げられた民衆、さらに全人類を正しい道に導く使命を負っていると確信していく青年たちのニヒリズム、アナーキニズム、社会主義革命、無神論、信仰、などについて描いています。しかしこれらの青年が当の民衆を実は心底から軽蔑し、理想を一挙に実現すると称して、殺人などの手段を平然と犯して、悪魔に憑りつかれたように自堕落に陥っていく様を描いています。

僕たちが学生の頃、この小説に心酔したり、嫌悪したり、さまざまに議論したものですが20世紀に眼前で起こった"憑りつかれた"国家体制(生まれる前のヒトラーやスターリンの)とその崩壊をみているとドストエフスキーの「黙示録」のような気がしてきます。
英訳者は当初、題名を"The Possessed" 「(悪魔)憑き」と翻訳したようです。このほうがあっているようですね。

2.歌曲「レビャートキン大尉の4つの詩より」Op.146 (注2)

ショスタコーヴィチの最晩年の歌曲集にこの『悪霊』の中から、歌詞を採ったものがあります。
その第4曲は「輝く人格」と題されて、レビャートキン大尉の記憶の中の秘密を共有するために殺した仲間の詩が引用されます。
「輝く人格」の要旨は、「彼は平民の家に生まれ、・・友愛と平等と自由を民衆に説いた。反乱を起こし逃亡しなければならなかった・・民衆は彼を待っていた。皇帝・貴族を廃し、私有財産をなくし、・・旧体制の因習である教会と、婚姻と、家族制度に永遠の復讐を遂げる・・・・」
これをバス歌手が怖いほど戯画化し、風刺の極致を行くような歌として歌います。革命や社会改革の理想を表す単語、文節が、ユーモアを通り越したまさに"反吐がでる"様に表現されて、その理想のもとに救済するはずの民衆に対する深い侮蔑感情が聞き取れます。
したがって、「輝く人格」という標題自体もかなり反語的、風刺的表現です。

1)「輝く人格」という歌曲について
ヴォルコフがおもしろい指摘をしています。
ヴォルコフは、ショスタコーヴィチのソルジェニーツィン (注3) に対する評価はアンビバレント(両義的)であったといいます。
「ショスタコーヴィチは作家として彼を非常に高く評価し、その人生が勇気にあふれているとしながら、他方ソルジェニーツィンは、自らを "luminary"と感じ、新しいロシアの聖人になろうとしていると感じていた。」 (注4)

「この両面は、1974年にソルジェニーツィンが国外追放された後 (注5) に作成された2つの作品に反映されている。」
つまりソルジェニーツィンについては、ミケランジェロの詩による歌曲集 (注6) では、ショスタコーヴィッチはフィレンツェからの亡命者としての詩人ダンテの境遇に対する怒りの詩句使っていて、そして、歌曲"輝く人格"はドストエフスキーの"悪霊"からの詩を風刺的パロディ化した曲である」と指摘しています。 (注4)

2)ミケランジェロの詩による組曲 Op. 145a.の一曲「 ダンテ 」は、ショスタコーヴィチのソルジェニーツィンに対する肯定的な側面を表しているという。
ミケランジェロは、「神曲」を書いたダンテを尊敬していた。現代では大詩人といわれるダンテも故郷フィレンツェでは、いれられず追放者として異郷の地にありました。ミケランジェロはこの詩でそのダンテの境遇に、深い静かな憤りを表しています。
ミケランジェロの詩は大抵やや大時代的、高踏な表現ですが、フィレンツェとその市民を非難し、"流刑された苦難"を"最大の幸運"と評価してこの詩を結んでいます。

3)「ショスタコーヴィチの証言」のなかのソルジェニーツィン
邦訳では本文中に2か所、「ソルジェニーツィン」の名前が出てきますが、英語版等は脚注で名前が示されているだけで、本文中の表現は「救世主のひとり(one of the saviors,)」 (注7) とか"ある輝ける人格(One luminary)" (注8) です。

"ある輝ける人格(One luminary)"と表現された部分は交響曲第14番 (注9) についての部分です。
ショスタコーヴィチは、アーポリネールやロルカなどの詩の歌詞とした11曲の歌で構成される交響曲第14番について「死そのものに抗議するのは愚かだとしても、強制的な死に抗議するのは可能であるし、必要でもある。・・・・私はあの交響曲のなかで死に対してではなくて、人々を処刑する死刑執行人たちに対して抗議している。」としています。
ショスタコーヴィチは、ソルジェニーツィのこの曲に対する意見について大いに不満をもっていたようで「第14交響曲を作家ソルジェニーツィンは言語道断なものとして、欠点を指摘していた。」「このような絶望的な悲観論者と一緒にお茶なんか飲みたくない」と言って招待を断ったことをショスタコーヴィチは「耐え抜いた」と述べています (注10)

しかし相手に対する尊敬がないとこのようには感じなかったでしょうね。
「交響曲第14番(1969)のなかでソリストは"死は絶対" (注11) と宣言し、慰撫されない苦悩に浸されている。ソルジェニーツィンは、反体制派として、そして信心深いクリスチャンとしてこれを受け入れることができなかった。 彼とショスタコーヴィチは、それまでの彼らの友好関係にもかかわらず、その後、仲たがいしている。」 (注12) というものです。
ソルジェニーツィンにとって、信心深いクリスチャンとしてその根本教義の一つである『復活』を認めず、「死んだ先は無である」とするこの曲は受け入れがたかったのでしょう。
ここでの"ある輝ける人格(One luminary)"との表現は、反語でも風刺的でもないようです。

4)「救世主の一人」(One of savers)
他方で、ソルジェニーツィンをスターリンとともに公認された「救世主」という表現で、「何度か病的な人間に出会った」、「まさに自分こそ人類をそしていずれにせよ、もしも全人類を全体として一気にというのが無理なら、少なくとも自国の国民だけでも正道に導く使命を負っていると確信していた。」と述べている部分があります。
この二人の共通性として、
「二人はもしも自分の気に入らなければ、誰かれかまわずかなり自制心のない表現で罵倒しはじめる」「そして肝心なのは二人とも、自分が救おうとしていた当の民衆を心底から軽蔑していたことである。」とショスタコーヴィチは述べています。

さらに「イエス・キリストでさえそのようなことに成功したとは言えない」とし「不安に満ち、かなり神経質な我々の時代には無理な事である。」「人頬を全体として、一気に救済したいという実験家は、今日ではかなり疑わしい存在に他ならない。」と述べ、
 「救世主の一人のほうは当然で彼は至る所で自分のことを信者であると公言し他の全ての人々の不信心を責めているのだから、と言われることだろう。」との部分、
邦訳では本文中に"作家のアレクサソドル・ソルジェニーツィン(1918~)"と訳出してありますが、英語版などは「救世主の一人」(One of savers)との表現でやはり脚注でソルジェニーツィンのことだと示されています。 (注13)

3."50年たったら、ソルジェニーツィンなんかいない!??"

僕が学生であった1974年、作家のソルジェニーツィンはソビエト連邦 (注14) を国外追放されました。この作家は社会主義体制に批判的な人物であることはよく知られていましたが、言いたいことが言えない国家なのだということが強く印象づけられた事件でした。
もっともソビエト国内で、「社会主義は"全人類を全体として一気にというのが無理なら、少なくとも自国の国民だけでも解放に導く使命を負っている"という正義の体制」 (注15) である。「いろいろ問題はあっても、この国や社会主義を批判する、悪口を言うのは、西側のアメリカを中心とする帝国主義者であり、ソルジェニーツィンの著作活動は、CIAの助力を得て、輝ける社会主義の事業を妨害する、東西冷戦下の政治的な工作の一部である」とか言っておりました。
あの追放劇はおかしいと社会主義信者さん達に言うと、"ソ連は色々問題があっても社会主義国で50年経っても存在するが、50年経ったら、ソルジェニーツィンなんかいない!"と断言してくれました。

4.チェロ協奏曲第2番ト長調 作品126(1966年)

チェリストのロストロポーヴィチはこのソルジェニーツィンを公然と擁護していた人ですが、1971年秋に来日して、ロストロポーヴィチに献呈されたショスタコーヴィチの チェロ協奏曲 第2番 (注16) を日本で初演しました。
テレビ放送で、その演奏開始前に"この曲にはロシア民族の悲劇が込められている、心して聴いてください"と日本の聴衆にむけて語っていました。
晦渋でムチや打楽器が多用されながらフォルテの音が殆どない不思議な感じの曲です。この時点では、ショスタコーヴィチは"忠実な共産党員"で"社会主義を讃える曲"を作っている人だと喧伝されていました。ソルジェニーツィンはどのような関係だったのか当然興味が湧きました。
ソルジェニーツインはドストエフエフスキーに深く心酔していることはよく知られていました。この曲を聞き終わると、なぜかその背景にドストエフエフスキーの世界があるようであり、遠景に"青ざめた馬" (注17) が見えるような印象を受けましたがよくわからないというのが本音でした。
1980年「ショスタコーヴィチの証言」の邦訳版が刊行され前述のショスタコーヴィチのコメントを読んでもまだわからないことが多々あり、1991年のソ連の崩壊に前後して、内部情報が一挙に出てきて、それを追っていくことで、二人の巨匠が何を言わんとしているのか理解できるようになったと思います。
「ショスタコーヴィチの証言」のなかで、「救世主のひとり」として茶化されたスターリンは、まさに現代の「ポチョムキン村」 (注18) をでっち上げていたのですが、この世界はドストエフエフスキーが「悪霊」で描いた世界そのものであったようです。
すなわちスターリンは"青ざめた馬"に乗った死神であり、それがひきつれる「陰府(よみ)」がもたらす処刑に対し、ショスタコーヴィチは憤り、抗議し、ソルジェニーツインは宗教者として憤り、抗議していました。
「ショスタコーヴィチの証言」の中でショスタコーヴィチは、ソルジェニーツィンに対して,交響曲第14番についての彼の意見について大いに不満を述べているとともに、ソルジェニーツィンの宗教的な救済者としての考え方を辛辣に批判しています。しかし、ソルジェニーツィンの立場を根底から批判しているかどうか前記のように何とも言えない点がありますね。

(注1):
フョードル・ドストエフスキーの長編小説(Бесы)(19世紀後半1871年から翌年にかけて新聞に連載され、1873年に単行本として出版された。)
(注2):
レビャートキン大尉の4つの詩より Op146
歌詞はドストエフスキーの悪霊から引用して、怖いほど戯画化して風刺の極致を行くような歌曲集
(注3):
アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(1918年~2008)ソビエト連邦の作家。1990年代ロシア再生の国外からの提言者である。ソビエト連邦時代の強制収容所を世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放され、崩壊後、1994年に帰国。 作家ソルジェニーツィンは『イワン・デニーソヴィチの一日』や『煉獄のなかで』(原題は「第一圏にて」でダンテの神曲の「地獄の第一圏」からの命名です。)などの著作も有名。1945年2月、東プロイセンの前線でソルジェニーツィンは逮捕された理由は、彼が友人に宛てて書いた手紙の中で、スターリンを「髭のオヤジ」と表現したからだった。
彼の『イワン・デニーソヴィチの一日』はドストエフスキーの体験談である「死の家の記録」に影響を受けているといわれます。ドストエフスキーは、シベリアでの流刑のなかで、思想的に変化しました・・・・。逮捕されるや彼は、監獄と収容所とを転々とさせられた。最後にはカザフスタンのエキバストゥーズという収容所に入れられたが、そこが後に「イワン・デニーソヴィチの一日」の舞台となったといわれている。
(注4):
Testimony 概説pxli (41)本文
同脚注「ソルジェニーツィンにショスタコーヴィチの態度は両義的であった。彼は非常に作家として彼を高く評価し、彼の人生は非常に勇敢であることを認めていた。しかし、彼はまた、ソルジェニーツィンは、自らを "luminaryと感じ、新しいロシアの聖人になろうとしていると感じていた。このアンビバレンスは、まもなく1974年に西洋へソルジェニーツィンが追放された後に作成された2つの作品に反映されている。」
(注5):
ソルジェニーツィンの擁護者でショスタコーヴィチと親しいチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチとその妻でソプラノ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤも国外追放されました。
(注6):
ミケランジェロの詩による組曲 Op145
「 ダンテ Dante」ほか10曲、合計11曲からなる歌曲集
最期の節の要旨:「もしも私が彼であったら!あれほどの運命のもとに生まれたのなら
あのつらい流刑にあっても その人間性でこの世界を幸福にできたであろう・・・」
なおミケランジェロは、著名な彫刻家であるが、ピエタなど彫刻作品とともに、天井画「最後の審判」の地獄の描写はダンテ・アリギエリ(1265-1321)の「神曲」地獄篇をイメージしたものと言われている。
(注7):
Testimony H&R初版 p187本文
(注8):
同 p242本文
(注9):
ショスタコーヴィチ 交響曲第14番
この曲は、弦楽と打楽器だけのアンサンブル+独唱2人の小編成でガルシア・ロルカ、ギョーム・アポリネール、ライナー・マリア・リルケなどの詩のロシア語訳を主に11編に曲を付けています[初版]。
(注10):
「証言」邦訳初版p.349
(注11):
第11曲[結び]はリルケの「形象詩集」から
「死は大いなるもの。われわれをほしいままにする・・・・」
「Der Tod ist groß. Wir sind die Seinen・・・・・」
(注12):
ヴォルコフの概説
「ショスタコーヴィチの証言」Testimony 概説p.xli
(41)本文
(注13):
H&B版p.187
本文:they'll say, one of the saviors, it goes without saying, called himself a religious man on every street corner and rebuked everyone else for lacking faith. *
脚注:* A reference to the writer Aleksandr Isayevich Solzhenitsyn (b. 1918).
(注14):
1917年ロシア革命(十月革命)により成立したソビエト連邦は、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、74年後の1991年12月25日に崩壊した。
(注15):
Column vol.3を参照してください。
Column vol.3はこちら
(注16):
チェロ協奏曲第2番ト長調 作品126(1966年作曲)
1966年ショスタコーヴィチは心臓発作を起こし"死"についてより考えるようになった。
この「チェロ協奏曲第2番」は、「アレクサンドル・ブルークの詩による歌曲」、「第11弦楽四重奏曲」とともに冷静で、達観的な、不透明で孤独な、やや簡明な構造で、まばらで最小限(の音)のこの3つの作品で聴衆は暗い原型的な領域に引き込まれる。
これらには、後の作品で発展するすべての要素が含まれている、
ここに、簡素さはやがて信条箇条となり、欺瞞と偽りに取り返しがつかないほど浸ってしまった世界に対するある種の万能薬となる。

第11弦楽四重奏曲は技巧的でなく、子供や道化(yurodivy 、Russian: юродивый)の無垢な純朴さで、衒学的な要素を排して,至高の解決に至っている…これは、ミケランジェロの詩による歌曲、レビャートキン大尉の4つの詩による歌曲の終曲を思い起こさせる。
(キリストへの愚かさ=聖なる愚か者は、人から見れば愚者でも意図的に愚かに振る舞うもので、間違って弱々しいこころのようで、挑発的な、刺激する、意図的である行動することを意味する[ The yurodivy (Russian: юродивый, is the Russian version of Foolishness in Christ (Russian: юродство, yurodstvo or jurodstvo),

より厳格に成熟した作品は このチェロ協奏曲第2番で―そこには複合的に発展するためのいわゆる単純性の法則があるーさらに純化されたユロディヴィが融合したり、構造化されて現れる。
総括すると弦楽器のための協奏曲は、個人の群集に対する抗議のドラマである・・ヴァイオリン協奏曲第2番はその怒りを爽快に表しているが、チェロ協奏曲第2番の終楽章、とりわけfffのクライマクスはヴァイオリン協奏曲第2番のカデンツァを示唆している。
(イアン・マクドナルド The New Shostakovich 、P260~3の要約)
(注17):
ヨハネの黙示録「見よ、蒼ざめたる馬あり、これに乘る者の名を死といひ、陰府(よみ)、これに隨ふ」
「黙示」とは「隠されていたものが明らかにされる」という意味であり、英語では「revelation」。黙示録という名前は定着しているが、「ヨハネ」が、終末において起こるであろう出来事の幻を見たと語る。
ドストエフスキーは「黙示録」的な世界観を持つ作家とよく評される。
(注18):
「ポチョムキン村」とは「18世紀の帝政ロシアで、ポチョムキン村は一時的な視察に堪えるためだけに存在したものです。エカテリーナ女帝がロシア農民を視察するとした際に、ロシア帝国の軍人で寵臣であったグリゴリー・ポチョムキンが、行幸のために作ったとされる「偽物の村」という故事に由来するもの。農民の生活は悲惨を極めているのに、沿道には張りぼての家や、豪華な食事など本当の農民の姿とはかけ離れた理想の村をでっち上げて女帝に見せた。(ほんとはどこまでやったかは異論がありますが)「ポチョムキン村」という表現は、後のソビエト政府が多少とも社会主義に親近感を抱いている外国人に対して、外国人のソ連国内移動には厳しい制約をしながら特別に用意した・工場・商店などに案内し、幸せそうな人民の姿を見せ、これが普通のソ連の姿であると示そうとしたことを指す。
なお「証言」の最初のページに「私は、・・・・新しいポチョムキン村を建設したいとは思わない。」という表現がでてくる。
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