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石川清隆コラム

真の自由」という幻を語る偽預言者たちコラム19

1.「真の自由」?!

経済構造が鵺(ぬえ)のようにばらばらの寄せ集めになってしまったソビエト体制ですが、そもそもは、「真の自由」を享受できる人間性の解放を、私有財産制の廃止によって実現出来るとしていたのです。
マルクスらは、普通の自由や、市民権を欺瞞(ぎまん)であるとしました。なぜならば「それらは人間を物質なものに隷属させるからだ」というのです。
マルクスらの道徳的正義は、結構単純なものです。
「人間をそのような束縛から解放して、「真の自由」を享受出来るようにしなければならず、それには搾取を生み出し、人間を支配する私的財産の廃止が真の自由の前提になる」というのです。
この牧歌的な「真の自由」がどのようなものか、マルクスははっきり言っていません。そもそもこのような真の自由なるものがこの世に存在するかどうか、「常世の国」 (注1) であるのか、56億7千万年経って弥勒菩薩が仏陀になって (注2) 実現するものなのか、皆目見当もつきません。
人間は、そもそも時間や空間の物理法則に支配されています。しかも死という限界をもつ有限な生命体ですよね。そのような「真の自由」なるものが人間に可能かどうかは考えてみればすぐわかることなのですが…。宇宙の果てまで觔斗雲(きんとうん)でも飛べないのに、私有財産制を廃止すると「ありがたい理想郷が到来する」というのがマルクスの考えの根底にあったのです。

2.「疎外」という難しいが単純なこと(経済法則を受け入れられなかった疎外論者たち)

このような主張の背景にマルクスが若い頃に分析した、「疎外」という概念があります。
難しい言い方ですが次のように言われています(これを読んで何を言っているのかわからない人のほうが普通でしょう)
"疎外"とは、「人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配する。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。」とされます。これってなんだろうと思いますよね。
マルクスの『経済学・哲学草稿』では、要は、"資本主義市場経済が形成されると人間は資本家・地主・賃金労働者などに分化する。人間普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間自身は労働力という商品となって資本のもとに従属し、物を作る主人であることが失われていく。労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なものとなっていく。"と述べられています。

「真の自由」の確立とやらにこの「疎外されちゃう論」が前提にあります。
でもよく考えてみるとこれは、生産活動が個々人の主観や願望に沿わず、意識を離れた外界に存在する経済法則に従わざるを得ないということではありませんか。
要は、マルクスは科学的社会主義と称し、社会発展の法則を発見したとしていたのですが、その現在の経済法則に従っていることを主観的に嫌悪していたのです。
経済法則だけが諸悪の根源とみなすことは出来ないはずです。
実際、私的財産を廃止したレーニンやスターリンは、その経済法則にしたがって、大量虐殺テロルを含め自由を制圧しただけでした。そして独自の特権をもつ新しい搾取階級となっていた「ノメンテクラツゥーラ」 (注3) の出現を追認しただけでした。
嫌悪したものに操られながら、極端な結果まで行ってしまったということでしょうか。 後年、マルクスはこの疎外という概念をあまり使いませんが、マルクスの思想の根底に、この富を生産する経済法則に対する嫌悪が色濃くあります。

3.海賊のお宝を奪っても剰余価値の搾取はない

マルクスの考えには、前コラム(Column Vol.19)で説明したとおり、労働者が賃金に払われていない剰余価値を収奪されることが、富の集中化と大多数の貧困化を招く、だから搾取は悪であるという道徳観が根底にあります。そして結論として、私的所有を廃止しなければ、この悪は、廃絶できないとします。
これをマルクスの後継者レーニンは、いかなる法的な拘束も受けず、プロレタリア独裁により、無慈悲な手段によってでも廃止すべしとしたのですが、結果は人類史上未曽有の惨劇でした。
よくぞとみれば、"剰余価値を収奪される"のは資本主義市場においてであり、この場には、所有権の絶対性 (注4) と契約の絶対性 (注5) があるはずなのです。海賊が島に蓄えたお宝については、それを奪っても実効支配が変わるだけで、基本的には搾取はありません。
小規模な農民(ソ連の国民の3/4であった)から、その耕作地を取り上げ、集団農場で働かせても、侵害される土地所有権がないわけですから、収奪、搾取にはならないのです。
淀屋のギヤマン天井で有名な江戸時代初期の「淀屋のおとりつぶし事件」 (注6) を見ると、淀屋の主人は有り余る儲けは遊興費や贅沢などに回り、資本主義的な生産体制の前提となる資本の蓄積に回りません。他方で財産権の保障がありませんので、天文学的な金額の淀屋の貸金も、契約(消費貸借契約)として、司法的に保護されることもありません。それ故、幕命による借金帳消しにより簡単に排除されています。

4.疎外の代わりの荒唐無稽の支配(財産権の保障無き社会では…)

歴史的には法律制度は財産権と密接にかかわって発展していく訳で、法の支配や人権の尊重も財産権の保障が中心にあります。
いろいろな人権も国王や貴族の徴税権に対する制限や農奴的な居住制限の撤廃という形で出てきたことは、教科書にも載っている歴史的事実です。
すると財産権の保障がないと、自然権と擬制されている言論・表現の自由、移動の自由など、また財産権制約と刑事手続きなどにおける適正手続きの保障などは欺瞞的なものにすぎず、そんなものはなくてもよいという発想になるのでしょう。
レーニンはどうも初期には「プロレタリア独裁」という専制支配は一時的なものだと考えていた節がありますが、ロシア革命について「マルクスが思い描いた、完全に自己充足的な生活を目指す伝統がない国に社会主義が導入されても、それはたちまちまったく自発的に、廃れたはずのツァーリ体制が備えていた最悪の性質を帯びていった」 (注7) ということは予測出来なかったようです。
 そしてその体制では「土地の私有制がないと名声と豊かさは一つの方法によってしか得られない」「政府のポストは国に対する奉仕ではなく個人的豊かさの手段とみなされた。したがって、すべての権力と富をその掌中に収めていた共産主義体制に参与することは地位と財産を勝ち得る主要な手段として理解されていたのである。」 (注8) ということになってしまうのです。
 ここでは資本主義的な権利義務による分配方式の代わりに、人命をも平気で奪う無秩序な相互収奪が発生することは明らかでしょう。私有財産制を廃止すると経済法則に疎外されないのでしょうが、人間がまさに暴力や非合理に弄ばれることになるだけなのです。

5.資本主義の精神(Der Geist des Kapitalismus.)

そもそも資本主義とはなんなのでしょうか。
マックス・ウエーバーは「近代的資本所有や企業家、または上層の熟練労働者層は著しくプロテスタント的色彩を帯びている」 という点に注目し、近代的な資本主義の成立には、商売が巧みなだけでなくこの精神的行動様式(エートス)が社会のシステムの中に組み込まれていったことが近代合理的資本主義を形成させたとして、このエートスを「資本主義の精神」としています (注9)
この行動様式を伴わない商業は、どれほど巨大に発展しても資本主義は成立しないというのがウエーバーの結論です。

6.プロテスタンティズムの倫理(の簡単な解説)

コラム20ここで「資本主義の精神」のもととなったプロテスタンティズムの倫理とはなんであるのでしょうか、難しい解説はいろいろあるのですが…。
キリスト教においては、最後の審判により神によって救済されない人間は、完全に消滅するとされ、そして救済や復活はもう二度とありえない。したがって、人生は一度きりである。死後に、再び肉体を与えられてこの最後の審判に臨むとされます。
プロテスタントのカルヴァン派 (注10) はその救済に有名な予定説を唱えます。予定説とは最後の審判で救済される人間は予め決定されているということです。そして人間の意志や努力、善行の有無などで、その決定を変更することはできない、また自分が救済される人間かどうか、予め知ることもできないということを強調しています。
キリスト教徒でない我々は、このところの畏怖ないし恐怖感がわからない。クリスチャンには、絵本「じごくのそうべい」 (注11) のような地獄を茶化す発想はありません。 「未来永劫に消滅する」ことへの恐怖感、これが根本にあるのです。
このことが信仰をもつ人々に激しい精神的緊張を与え、人生において自分の全精力を、信仰と労働(神が定めた職業)に集中しなければならないという精神・行動様式(エートス)を生み出したということでしょう。
すなわち救済されるか否かは人間には不可知であるが、「現世において信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことで、自分が救われるとの確信を持つことができる」、「救われる人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という逆説的論理なのです。
これが、マックス・ヴェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理」の根本にあるのです。そして利潤(や利子)、所有権についてもこのような観点から正当化されるのです。 (注12)

7.偽預言者たちの回心

私的財産権を廃止してここで無秩序な簒奪者となるのが、レーニン型の鉄の規律の前衛党だったのです。   レーニンがいうには、労働者階級を指導する「前衛党」には理由はよくわかりませんが、卓越した資質が備わっているそうなのです。 しかしこれはよく考えてみると「共産党は労働者階級の前衛でこれを指導する。党の綱領、決定を正しいものと認める。」という信仰告白を前提にしている疑似宗教的考えにすぎません。すると救済されるか否かわからないという緊張下にうまれるプロテスタンティズムの倫理とは逆に、現世において「選良(エリート)として選ばれたのだ」という確信を持つお墨付きを与えられたように思うのでしょう。

したがって「(共産)党はいつも正しい」とういうことになり、共産党員は大衆に対しては「全知全能」の党の「預言者」になったように振る舞います。はたから見れば、単に知ったかぶりをしているだけなのですが… (注13)
この疑似科学的に理論武装した宗教については、ケストラー (注14) の言っていることが言いえて妙でしょうか。
"ケストラーは、共産党への加入を宗教的回心と比較して 次のように語っている。
「光を見た」というのは、回心者だけが知っている心理的狂喜のお粗末な表現である -この新しい光は あらゆる方向から頭蓋骨に注がれるように見える。ばらばらだったジグソーパズルのピースが、魔法で一気に組み立てられるかのように 全宇宙がひとつのパターンに収まる。今やそこには、あらゆる問いに対する唯一の答えがあり、疑問や争いは歪曲された過去の事物となる・・・・ したがって何ものも、回心者の内的平和と平穏をかき乱すことはできない・・・・再び信念を失うこと、それによって生きるに値するような何かを失い外部の暗闇に再び引き戻されることに対する恐れがときどき訪れるのを除いては-" (注15)

8.「大仰な思想」、「世俗的な目的」そして「もっとも不愉快な行為」 (注16)

「真の自由」をもたらすための平等を実現するためにはすべての生産手段を国有化するというのが、この偽預言者たちのお考えでした。すると、国民の所有物に対する尊重はなくなり、諸権利どころか生命まで侵犯することに歯止めがなくなるのです。
  すべての富と生産手段を掌握し、無限の権力を手に入れたこの「前衛党」は、常に「階級・人民の敵」を恣意的に創出し、それとの闘争を大義名分として、権力を行使するのです。
ここで、名声と豊かさを共産主義体制に参与することによって得ようという動機をもつ人々が、私的な利己心、物欲をともなう嫌悪感・嫉妬心で権力を行使するのですからたまったものではありません。 "ユートピアにおける実験の代価は、途方もないものだった。それらはあまりに多くの人命を犠牲にした・・・・。
生き延びた人々もまた代価を払った。共産主義体制は完全なる従順を課そうとする中で、おとなしく従おうとしない人々を流刑や投獄、鎮圧に処した。多くの場合、これらの人々は最も有能で最も積極的な民衆だった。その結果、逆方向の進化といったようなものが働き出し、最も依存心の強い順応者だけが生き残れる最大のチャンスを得た。進取的で、正直で、公共心をもつ人々は絶滅した。共産主義社会はこうして最善のものを失い、それに伴って自らが貧困に陥っていく姿を目の当たりにしたのである。" (注17)

旧約聖書にある言葉です。"にせ預言者たちはぶどう園の壁に穴を開け、ぶどう園を台無しにするきつねのように、私たちの魂に穴を開けてしまいます。彼らは奸悪な言葉と狡猾な言葉で純真な人々を惑わせます。にせ預言者たちは災いが臨んでも、「平安。平安。」と叫びます。"と (注18)

(注1):
常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる理想郷。そこでは永久不変や不老不死が実現されているとされていた。
(注2):
仏教において 兜率天という天上界で修行している弥勒菩薩が56億7千万年後に次の仏陀として地上に現れ人々を救済するとされる信仰
(注3):
「そのメンバーになれば永久的地位を保証され、事実上世襲を享受できる」ソ連崩壊時点で75万人近く、家族を含め300万人、つまり人口の訳1.5%となり、これは18世紀にツァーリズム統治下で奉仕していた貴族の数に相当する」  共産主義の見た夢 リチャード・パイプス著p.97
(注4):
近代的所有権、包括的・絶対的支配権誰のもので、だれに帰属するかは、観念的抽象的論理的に一義的に決定される。
(注5):
資本主義的契約でその内容が、当事者を拘束し、裁判所によってそれが担保されること
(注6):
淀屋辰五郎(五代目)、江戸時代の大豪商。
二代目は屋敷前から、米市場前までの間に大きな橋を架けたり(現在の「淀屋橋」)、五代目は米取引に先物取引を導入するなどで莫大な富を得たと言われている。
遊興費も一年余で現在の価値では約100億円使い、当時ではギヤマンと呼ばれて大変に貴重だったガラスを天井に貼り、金魚を泳がせていたような部屋を作ったりした。
倹約令違反としてそれが幕府の目にとまり、「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」と、闕所(けっしょ:財産をすべて取り上げられ追放されること)という処分にされました。実際は淀屋に借金のない西国大名いないといわれるほどで、その額は現在の貨幣価値にすると、120兆円ほどで、この大名らの債務帳消しの為であったといわれています
(注7):
共産主義の見た夢p.43~44
「プロレタリア独裁」を「プロレタリア執権」とか言いかえたり、綱領から表現を消したりしたとしても、同様な手段で私有財産制の廃止を意図していることは変わらないでしょう(笑)
(注8):
同書p.168
(注9):
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
(注10):
カルヴァン主義とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践である。
宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンにちなんで名づけられている。
またこの神学体系は予定説と全的堕落の教理により、最もよく知られている。
(注11):
『地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)は、上方落語の演目の一つ、絵本「じごくのそうべえ」はこの落語から・・軽業師のそうべえが綱渡りに失敗し、途中で出会った山伏、歯ぬき師 医者らと、4人そろって地獄のなかを大暴れ。糞尿地獄も、熱湯釜ゆでも、針の山も、特技をいかして平気の平左。
どう見ても地獄から追い出されるでしょうね(笑)
(注12):
利潤(や利子)、所有権の発生

①利潤(や利子)についても最初から追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その結果として利潤(や利子)を得るのであれば、それは「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証となり、労働によって蓄えられた金は、浪費されることもなく貯蓄され、これが資本蓄積となり)、神のみ心に合う利潤追求のために再投資される。結果、大規模産業を興すことが可能となった。

②キリスト教では神の被造物に対する神の所有権は絶対である。このタテの絶対的所有権が、ヨコの絶対的所有権に転化した理由が、欧米社会におけるキリスト教の本格的普及である(「日本人のための宗教原論」小室直樹)

「ジョン・ロックの所有権論は、ロックは所有権の発生とその正当化を労働によって説明しています。この所有権論は、労働の成果はその労働を行った者に帰属すべきであるというわれわれの自然な直観に適っている。」 ジョン・ロックの所有権論の研究 今村健一
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/625.html

「ロックにおいて、所有権は、自然法のもと、自己保存の権利ならびに自己保存実現のために自然の産物を利用する権利を共通の権利として与えられている人びとが、元来は人類の共有物である有用で稀少な自然の産物を、自己保存のために、より有効に利用していこうとするなかで、求められ、生じてくる。しかし、自然法は、各人に、単に自己保存を図るだけでなく、それと共に、可能なかぎりの他者保存をも図るよう命じている。それゆえ、所有権を行使しつつ自己保存を図ろうとする者には、他者保存への配慮が、とりわけ、他者のもつ自己保存の権利に対する侵害を回避することが要求されることとなる。つまり、所有権を獲得し、それを行使する者には、資源の稀少性を前提に、自己保存と他者保存を二つながら実現する義務が課せられている」という。
この所有権が禁欲的労働によって得られたものであるならばそれは、人間社会で相互にリスペクトをもって尊重されるようになるわけですね。

(注13):
この傲慢さの概説はColumn Vol.3をご覧ください。 Column Vol.3はこちら
(注14):
ケストラー【Arthur Koestler】[1905~1983]英国の小説家・ジャーナリスト。スペイン抑留時代の経験をもとにした「スペインの遺言」、ソ連の全体主義を批判した「真昼の暗黒」ほか、多くの政治小説を書いた。
(注15):
共産主義の見た夢 p.142
(注16):
共産主義の見た夢 p.218
(注17):
共産主義の見た夢 p.221
(注18):
エゼキエル書 113: (10-15)
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