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石川清隆コラム

「サハロフ博士の異常な愛情」と「きれいな放射能」?!ソ連の水爆はいつから”汚く”なったのか
コラム22

1.「博士の異常な愛情」

サハロフ (注1) は1970年には反体制運動家となり、1975年ソ連での活動を評価されてノーベル平和賞を受賞しました。サハロフは、ソ連において1949年ソ連最初の原爆を完成、1953年8月12日水爆開発に成功したとされています。しかし、1955年11月、真の多段階水爆は、サハロフのアイデアにより開発されたのです。(この間独裁者スターリンは1953年3月に死亡したが)この業績で数々の栄誉を与えられましたが…。
しかし、作曲家ショスタコーヴィチは、サハロフに対し強く批判していました。
1970年代サハロフがすべての栄誉をはく奪され、ソ連政府から迫害されている姿を見ると、どうしてこのような非難をするのか分かりませんでした。
”サハロフのように最初に大量殺戮兵器を発明しそれを圧制者たちに直接手渡しておきながらあとになって泣きごとめいたパンフレット (注2) などを書いているのだ。しかしこの二つは均衡のとれるものではない。いかなるパンフレットも水素爆弾を帳消しにはで出来ないだろう。醜い行為で自分を汚しておいてあとで美しい言葉を語るのは冷笑的な態度の極致のように思われる。それなら醜い言葉を語って非難されるようなことなどなにもしないほうがまだましだと考える。そして何百万の人を殺戮する潜在的な殺人者の罪は、なにものによっても償えないほど大きいのだ。”と (注3)
でもソ連の水爆開発の背景となぜサハロフが「水爆の父」と言われたのかが分かってくると、あの人食いマシーンのような政治体制にどうして協力したのだろうかと思われてきます。

2.核開発と大粛清の主要な執行者べリア (注4) の役割

サハロフが黙々と熱核兵器を開発していた頃、それまで戦前の大粛清による数百万人の虐殺(これには文化人だけでなく科学者も含まれていた。犠牲者の数はおそらく一桁多い)、赤軍将校の8割を粛清したところを不意打ちされた独ソ戦での3000万人の死者を(民間人を含め)出していました。
そして1944年12月、ソビエト原子爆弾開発プロジェクトの監督をしていたのはスターリンの大粛清の主要な執行者の一人ベリヤだったのです。
クルチャトフが指揮するサハロフらのもとには、べリアの機関のアメリカの核兵器プログラムへの諜報活動、例えばスパイであったマンハッタン計画の従事者から得られた情報がありました。実際、最初の原子爆弾は諜報活動によって入手したアメリカのデッド・コピーであったとべリアは言明していました。
核開発プロジェクトは、有能な核物理学者グループや技術情報だけではなく、ウラン採掘やウラン加工施設の建設と稼動、核実験施設の建設のために、膨大な労働力を必要としました。この数は数十万人…。
サハロフは、かなり後になって水爆実験による放射能拡散が住民に被害を及ぼすことで軍人と対立したことは書いています。しかし、原子爆弾の開発過程で必要なウランがどこから手に入るのか、その加工施設の建設を誰が行っているのかを見たことはなかったのか、何も語っていません。ウラン採掘に始まり、プルトニュウムの加工などこれらのしばしば危険を伴う様々な作業のための数十万人もの奴隷労働力を提供したのは強制収容所でした。また大量の液体放射性廃棄物は川に垂れ流され、現在においても近隣住民に深刻な被害を与えています (注5) 。この「収容所群島」の住人と違って、「白い群島」に住む科学者や技術者たちは、特権的な生活条件を享受していたといいます。NKVDも、このプロジェクトの安全性と機密保持の確保にあたったのです。
そして、サハロフが水爆開発に貢献したのは、重水素だけを核融合燃料に使う場合、その”爆弾”は巨大な装置規模となり、爆撃機やミサイルでは運搬出来ませんでした。サハロフは、原子爆弾を起爆材とし核融合「燃料」である軽い原子核の層と、重い原子核の材料の層を交互に積み重ねた「スロイカ」方式の熱核爆弾を発明しました(この臨界に関する複雑な計算も含む)。 (注6) これにより、水素爆弾は小型軽量でき、爆撃機に搭載可能なものとなったのです。

サハロフは、なぜこの点を語らないのでしょう。あのスターリン時代を見ながら、そして1970年頃まで、煮え切らない態度であったことは確かです。
当時ジダーノフ批判 (注7) で、レニングラード音楽院の教授を解雇されていたショスタコーヴィチは映画音楽の仕事で糊口をしのいでいました。 (注8)

3.ハンガリー動乱(1956年)後の歴史的迷言、
―いわゆる「きれいな放射能と汚い放射能」という面白い考え方―

大戦後、ソ連は、その支配権を東ヨーロッパに確立しました。1956年にはハンガリー動乱(ソビエトの支配に反対する民衆に蜂起)が起こっていました。この事件について公に議論することは、その後30年間禁止されていましたが、ショスタコーヴィチはソビエトの共産主義について、「ロシアの歴史のなかでは、多くのことが繰り返されているように思われる。国民はそれらに対して同じように考え、同じように行動する。…この反復を、わたしは第11交響曲の中で示したいと思った。この交響曲を作曲したのは1957年で、「1905年」と名づけられているとはいえ、現代の主題を扱っていたのである。かずかずの悪業に耐えられず、支配者への信頼を失った国民についての曲である」(邦訳初版p23~24)と述べ、この最終楽章に執拗になる鐘についてでしょうか、ボリス・ゴドノフの編曲に関連して「鐘が鳴り響くとき、それは人間よりはるかに強大な力が存在すること、歴史の審判を免れられないことを思い出させる。」「鐘の音はこんな考えを暗示している』(同p.338)と述べています。
民心の支持を失った権力がどうなるのか、これは35年後に起こる東欧社会主義国とソビエト崩壊まで予感しているように思えます。 でもこのころフルシチョフのスターリン批判で、スターリンは悪かったがレーニンはソ連は社会主義国で良い国だと信じている自分の頭で考えない人は、「きれいな放射能と汚い放射能」とか言っていたのです。

ビキニ環礁で行われているアメリカフランスなどの水爆実験とソ連の水爆開発やその実験について以前は面白い議論がありました。この水爆開発と核実験を公然と擁護する意見がありました。サハロフ博士もこのように思っていたのかもしれませんが…。
1966年、日本共産党は”ソ連の核実験が再開されると「核実験による放射能は、米ソいずれの実験を問わず当然それ自体生理的に有害なものである。…だが、そこから世界平和の大局的な利益にとってのソ連核実験の政治的意義を、物理的な現象と混同することは正しくない。社会主義国の実験は、帝国主義者による核戦争を阻止する役割をもっている」「核実験の循環競争の機動力はアメリカ帝国主義である。したがってソ連の核実験に抗議することは、世界平和の立場からみて妥当でない” (注9) という立場を鮮明にしました。
そして、それは「ご指導の党」によって大衆運動のなか持ち込まれ、"わが国の原水禁運動は「いかなる国の、いかなる原水爆核実験にも反対する」組織集団とソ連の原水爆核実験(当時中国は未実験国)を「戦争勢力に対抗する正義の行為」として擁護する立場をとる組織集団とが、その主張を互いに譲らず、分裂するという事態になった" (注10)
世の中によい水爆と悪い水爆があってビキニ環礁で続けられていたアメリカ、フランスなどの水爆実験は「悪い」のだが、ソ連の水爆実験は「良い」ので非難してはいけないというのです(笑)。

4.「プラハの春」後5年の態度変更

この態度が表面上改まるのは、1973年11月日本共産党『核兵器全面禁止と原水禁運動』 でようやく転換しました。
「この数年間重要な変化がおこった。社会主義国であるソ連と中国が互いに対立…またソ連のチェコスロバキア侵略という、われわれが非難した事態、残念ながら社会主義国の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、余儀なくされたものだとは、簡単にいえなくなってきている。」 (注9) のだそうです。
ここでいうチェコスロバキア侵略とは、1968年に起こった「プラハの春」と呼ばれるチェコスロヴァキアの変革運動に対し、ソビエト軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入のことです。
しかし、原水禁運動は分裂したままで、1977年それまで分裂していた原水協と原水禁は、「年内をめざして国民的大統一の組織を実現する」との「5.19合意」を結んだが、この時共産党の統一戦線部長(金子満広)は、原水協内・共産党グループが党中央の許可を得ずに自主的に結んだ「合意」を認めないと批判し、「合意」の破棄を指示させていた。
原水協運動や平和委員会の人事上のごたごたを起こし(どちらが正しいかは知りませんが。)、結局、1984(昭和59)年.古在由重ら党歴30数年の学者党員たちを日本共産党は「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名されるという「原水協事件」 が発生しています。そして分裂した原水爆禁止運動は、いまだにそのままのようです。

5.「マルクスは生きている」という人の「最初からきっぱり反対」論?!

日本共産党は、ソ連が崩壊した1991年には、「巨悪の崩壊をもろ手をあげて歓迎する」と言っていたというのですが、そうではなく宮本顕治は当時「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある。…レーニンの言った自由な同盟の、自由な結合がソ連邦にはなかったのだから、私達としてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない。きたるべきものがきたという、冷静な受け止めなのです」 (注11) と歓迎とは言っていませんでしたが…。
このごろ原子力についてはこんなことを言っておられます。
2011年、不破哲三は”日本で、原子力発電が問題になってきたのは1950 年代の中ごろからで…1960 年代に商業用の発電が始まるのですが、日本共産党は、安全性の保障の無い「未完成の技術」のままで原子力発電の道に踏み出すことには、最初からきっぱり反対してきました。」と言って中央委員会総会でこの問題を討議し、「原子力問題に関する決議」を採択した (注12) ”と。
しかしその61年の「決議」では原子力の問題は、”軍事的利用と平和的利用という互いに対立する深刻な二面性をもっている。…しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、…平和的利用は大きく制限される。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、…人民が主権をもつ新しい民主主義 の社会、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している” (注13) と書いてあるのですが、
引用しているのでこの決議の内容を忘れたわけではあるまいに、それを「最初からきっぱり反対」というのは嘘なのか方便なのでしょうか(笑)

70年代、西ヨーロッパの共産主義者たちがユーロコミュニズムと呼ばれる政治的姿勢を打ち出しました。これは共産主義をソビエトによる大粛清、人権弾圧や経済的後退との同一視されることを避けるため、議会制度のもとで、有権者へのアピールを拡大する試みでした。従って、この運動を「共産主義の穏健版」と表現するのは誤りです。共産主義を政界の主流にしようとする短命かつ不成功に終わったこの試みは、実のところ共産主義が諸悪の根源と主張していたすべてを否定することを意味していたからです。
ソビエト連邦崩壊後、ヨーロッパの共産主義者は数多くの変化と分裂を経験しました。強硬路線をとる政党と分派はその崩壊をゴルバチョフが資本主義に妥協したせいだとし、スターリン主義に固執しました。その他の共産主義者らは、従来の共産主義に背を向け始め、こうして有力であったイタリアの共産党はひっそりとその名を「左翼民主党」に変更したのです。そしてフランスでもマルクスレーニン主義は放棄されました。
先進国で唯一「マルクスレーニン主義」の放棄を明言していないで、マルクスは生きているとするこの政党はいつまでこのような「ぼくちゃんたちは昔から正しい」という主張を続けるのでしょうか。

(注1):
アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフ(Андре́й Дми́триевич Са́харов、1921 - 1989) ソビエト連邦の理論物理学者。物理学博士。
大戦中の42年モスクワ大学を卒業後、ソ連において1949年8月29日、ソ連最初の原爆を完成する、1953年8月12日水爆開発に成功し、「ソ連水爆の父」と呼ばれた。(1953年3月にスターリンは死亡した)後に自らの良心に基づいて1970年には反体制運動家となり、1975年ソ連での活動を評価されてノーベル平和賞を受賞する。
(注2):
1968年サミズダードの形式で発表された「進歩、平和共存、知的自由に関する考察」であると思われる。これは同年西側で公刊されたため、サハロフは、軍事関係の研究から外される。:サミズダート(ロシア語: самиздат)は、発禁となった書物を手製で複製し流通させるという、地下出版。
(注3):
ショスタコーヴィチの証言 邦訳初版 p.350
(注4):
ラヴレンチー・ベリヤ(1899 - 1953年)ソビエト連邦の政治家。ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者。1938年エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、1944年12月ソビエト原子爆弾開発プロジェクトの監督にあたることになった。第二次世界大戦後、スターリン政権下でKGBの責任者として知識人を粛清し、300万人もの人々を収容所に送り、フルシチョフとの権力闘争に敗れ、処刑。
(注5):
http://www.morizumi-pj.com/ural/ural.html 別ウィンドウで開きます
(注6):
水爆は原子爆弾を起爆材として、重水素や三重水素の原子核、を核融合させ(ヘリウムの原子核ができる)そのとき発生する巨大なエネルギーを破壊力に用いるものです。
ソ連邦の最初の水素爆弾-サハロフとギンツブルグの「層(スロイカ)」型熱核爆弾の製造 サハロフは、「燃料」である軽い原子核の層と、重い原子核の材料の層を交互に積み重ねた「スロイカ」方式の熱核爆弾を発明した。(ロシア語の「スロイ」は、「層」の意)
原子の「発火装置」の爆発の結果、重い原子核の層は完全にイオン化し、数百倍に「膨張し」、軽い原子核の層を圧縮する。これにより、軽い原子核の層では軽い原子核の融合が開始される。燃料として、サハロフは重水素3重水素提案した。これらは定常条件下では気体であるが、極低温下で液体である。
爆発の箇所に、半製品燃料として、リチウムと重水素からできている固体を利用し、燃料とすることを提案した。原子の「発火装置」の爆発時に、強烈な放射線と中性子の流れが発生する。これらの作用により、重水素化リチウムは分裂する。中性子はリチウムをヘリウムと3重水素に分裂させる膨張した隣り合う層によって圧縮された重水素と3重水素は巨大なエネルギーを放出する。
熱核燃料の数kgの爆発は数百万トンのTNT(トリニトロトルエン)の爆発と等価である。

http://www.oyama-ct.ac.jp/D/kinnoken/translation/nauka-i-zizni/2010-3.pdf 別ウィンドウで開きます (PDFファイルが開きます)
http://www.oyama-ct.ac.jp/D/kinnoken/translation/nauka-b-rocci/2011-4.pdf 別ウィンドウで開きます (PDFファイルが開きます)
(注7):
ジダーノフ批判は、ソビエト連邦共産党中央委員会による、前衛芸術に対するあら捜しと、それに伴う芸術様式の統制である。1948年2月10日に公にされた。この批判を推し進めた人物、中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフに因む。1958年5月28日に宣言が解除されるまでの十年間続く…。
「音楽的荒唐無稽の密林のなかヘと突進…聴衆の要求する表現の豊かさは気ちがいじみたリズムによって置き換えられている。音楽的騒音が情熱を表現すべきであるという訳である。」「極左的畸形」で「主人公に『情熱』を付与するためにジャズからその神経過敏な、痙攣的な、発作的な音楽を借用しなければならなかった」(この表現「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対するプラウダ批判と同じ)。
ジダーノフの演説のところどころに「あらしのような拍手」という部分も翻訳されています。そして最後は「あらしのような拍手、全員起立」とまで…。
詩人アンナ・アフマートワは「修道尼僧のようでもあり、淫蕩女のようでもあり、もっと正確にいえば、祈祷とまじりあった淫蕩を身につけた淫蕩女兼修道尼僧である」と評されています。ジダーノフ『党と文化問題』"国民文庫(当時大月書店)本書の「付録 ジダーノフ」という解説には、この演説について「レニングラード党組織の活動家会議で、…その内容において深く、形式において輝かしい報告を行った」という「『ソヴェト大百科辞典』からの引用まで訳されています。
(注8):
コラムVol.5、Vol.10参照
コラムVol.5はこちら
コラムVol.10はこちら
(注9):
1966.11『前衛』第10回党大会特集 該当部分は以下の通りです。
「核実験による放射能は、米ソいずれの実験を問わず当然それ自体生理的に有害なものである。われわれは、この実験そのものが持つ人体への有害な作用を軽視していない。だが、そこから世界平和の大局的な利益にとってのソ連核実験の政治的意義を、物理的な現象と混同することは正しくない。社会主義国の実験は、帝国主義者による核戦争を阻止する役割をもっている」「核実験の循環競争の機動力はアメリカ帝国主義である。したがってソ連の核実験に抗議することは、世界平和の立場からみて妥当でない」
「1973年11月日本共産党『核兵器全面禁止と原水禁運動』では「この数年間重要な変化がおこった。社会主義国であるソ連と中国自体が互いに対立し合うようになった。…またソ連のチェコスロバキア侵略という、われわれが非難した事態、残念ながら社会主義国の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、余儀なくされたものだとは、簡単にいえなくなってきている。」となっています。
(注10):
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/dletter/n3103.pdf 別ウィンドウで開きます (PDFファイルが開きます)
(注11):
「巨悪の崩壊をもろ手をあげて歓迎する」と言っていたというのですが、宮本顕治は当時「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある。…レーニンの言った自由な同盟の、自由な結合がソ連邦にはなかったのだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない。きたるべきものがきたという、冷静な受け止めなのです。」(宮本顕治「世界史の到達と社会主義の生命力――ソ連共産党、ソ連邦はなぜ破綻したか」『前衛』92年3月号)
(注12):
2011 年5 月10 日、日本共産党中央委員会主催の第4 回「古典教室」で、不破哲三・社会科学研究所所長がおこなった講演「科学の目で原発災害を考える」(5月14 日付「しんぶん赤旗」)
”私たちが、党の綱領を決めたのは1961 年7 月の第8 回党大会でしたが、その大会直前の中央委員会総会で、この問題を討議し、「原子力問題にかんする決議」を採択したのです。”
(注13):
1961 .7「原子力問題にかんする決議」(『日本共産党決議決定集 7』)
「原子力の発見と解放によって、人類は一グラムの物質から二百五十億キロワット時という巨大なエネルギーをとりだせる可能性をえたばかりでなく、工業、農業のあらゆる生産分野から医療その他の日常生活の領域にいたるまで、画期的な展望を見いだし、自然にたいする人類の英知のかがやかしい勝利を示した。原子力の問題は、「軍事的利用と平和的利用というたがいに対立する深刻な二面性をもっている。原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま自動的に実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利にむすびついている。原子力のもつ人類のあるゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している」
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