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石川清隆コラム

コラム32 「阿Q正伝」と現代「すーだら節」考コラム32

魯迅は短編小説集「吶喊」の序で「精神たましいの縷糸(いと)が已(す)でに逝ける淋しき時世になお引かれているのはどういうわけか。」と自問し、『忘れることの出来ない一部分が今、「吶喊」となって現われた来由(わけ)である。」 (注1) であるとする。「吶喊」とは、ときの声をあげて、敵陣へ突き進むことなのです。

1. 「吶喊」で突き進む先には・・・・

(1)「阿Q正伝」

魯迅の「阿Q正伝」というのは何のとりえもない人物を描いた中編小説。彼はなんのとりえもないだけでなく、家も家族を持たず、日雇いのような仕事をして地域を転々としていた。酒、ギャンブル、女、のいずれも失敗談、「すーだら節] (注2) にうたわれたような生活。 彼は喧嘩をすることが多かったが、殆どの場合は負けてしまった。
しかし、彼は「精神的勝利」を収める方法を身につけており、たとえ自分が喧嘩に負けたとしても、「(自分の)子供に打たれたようなもんだ」など、負けても勝ったことにしてしまう心のコントロール方法を身につけたという。
この「阿Q正伝」は、「中国民衆の愚劣さ」を描いたものといわれるが、「前近代性を引きずっている諸国民の愚劣さ」を描いているといった方がいいかもしれませんね。

(2)旧日本軍と御用新聞

この「精神的勝利」法に似ているのが、旧日本軍の「大本営発表」・・・
ミッドウェー沖の大海戦、日本の主力空母4隻は、全滅した。しかし当時、朝日新聞は「米空母二隻 エンタープライズ、ホーネット撃沈、我が二空母に損害(一隻喪失、一隻大破)。」おまけに「刺違え戦法成功 敵の虎の子誘出殲滅 太平洋の戦局 此一戦に決す。」とまで付け加えてヨイショ記事を書きました。もはやアメリカには太平洋上で戦う戦力がないということですが・・・・やがて「敗北のため撤退」を「転進」というようになり、朝日新聞もこの表現を使っていました。

(3)「安保ン丹」 (注3) で食う反対派

戦後の左翼運動なども「ご指導」の前衛党は何をやっても「勝利」「前進」。
大戦中のインパール作戦では9万人中3万人戦死4万人餓死、食糧がないにもかかわらず、牟田口司令官は「緑がこれだけあれば食料は必ずある。南方の草木は全て即ち之食料なのである」とか言っていたそうだ。戦後は「アメリカ帝国主義とそれに追従する日本・・・の矛盾はますます深まっている」(よくわからいでしょうね、私もよくわからない)という結論の中で、労働運動も学生運動も政党も組織はジリ貧状態ないし、過疎化・高齢化が進んでいます。
昔から「安全保障条約」に関連して、いまは亡き「社会主義国は平和勢力」であり「非武装中立」とか「民主連合政府」とか、できもしない非現実的な理念・政策を掲げ、「反対」といって食ってきた人たちがいたような気がします。国家権力に対し反対の意思を、表明することの自由、デモ行進や報道そして議会内での討論などで反対できることは民主主義に必須なことですが、野党などは総じて、本気で反対しているのであろうかという感じでした。
共産党などは、1955年の協議会(六全協)で「農村から都市を包囲する」という武装闘争方針を放棄し表向きは、「議会闘争重視する」という方向になっていったが、ソ連崩壊後には『マルクスレーニン主義』や『前衛党』というあたりを曖昧にして、ひたすら議席の微増微減に一喜一憂しているようです。この頃は、綱領に掲げた「自衛隊違憲」「天皇制廃止」を棚上げにして、これらを前提とした『国民連合政府』とか言い出したのですね。国民に媚を売って国会や地方議会を含めて議員を増やし、それで歳費・報酬の一部を上納させるため票を集めたいのでしょうか・・・

先の安保法制に反対する国会周辺の集会には、全学連(日本の学生自治会の連合組織)や学生自治会の旗印はこれらの組織が壊滅状態のようで全く見かけませんでしたね。この集会の主体は、どうも還暦を過ぎて暇になった団塊の世代それに+話題作りの「若者」・・・・
先ほどの朝日新聞は、戦後には「反反共」という切り口に「売り」を変えました。これがかつては「知識人」にうけたのでしょうか、先の安保法制国会などについてかなり無理な報道を重ねていました(だからと言って「廃刊」とならないところが民主国家の良いところですね‐笑-)。

2. 消えた(?)替え歌の中の三「聖人」グェン・バンチョイ、ジョー・ヒル、ビクトル・ハラ

『名曲ケ・サラ (CHE SARA)の替え歌 (注4) に「いつも思い出すのさ 自由のために死を選んだグェン・バンチョイ (注5) ジョー・ヒル (注6) ビクトル・ハラ (注7) を決して忘れはしないさ」という三人、今どれだけの人がおぼえているのだろうか?』と旧友が問うのはおそらくほとんどの人に忘れられているのだろうということのようだった・・・・

友人は、数年前、或る町で面白い選挙光景を見たという。ある首長選挙候補者は、友人と同じ還暦近い、40年以上前に予備校で「日本共産党に入党することは、・・小林多喜二や、南ベトナムのグエン・バンチョイと同じ地平に立つことになる、同じような覚悟ができるかと自問したんだ」といっていた人物だという。
「高校では受験準備ができておらず東大受験に失敗」というその人物、結局めざす国立大学には合格できなかったそうだが、友人は「グエン・バンチョイ・・」というセリフを聞いた時なぜか"「阿Q」が眼(ま)ぢかに殺された革命党を見たが・・・。どうした機(はずみ)か、ふと革命党が自分であるように思われた。未荘の人は皆彼の俘虜(とりこ)となった。彼は得意のあまり叫ばずにはいられなかった。「謀反だぞ、謀反だぞ」"という「阿Q正伝」の シーンが重なってしまったという。 その新「阿Q」君は「その年は、沖縄返還をめぐって重要局面をむかえていました。」と予備校にいた民青班にビラをつくって予備校生に配布させたり、校内集会を開く、学外デモに参加するなどを「指導」していたという。友人も勉強時間をさかれてかなり迷惑を受けたようだ。
 その隣の応援に来た幹部を見た時に笑ってしまったそうだ。なぜならその党の大幹部は国会議員らしかったが、当時予備校では、「未結集」といって何も活動もせず、ひたすら予備校での予備校生本来の受験勉強に専念し、ビラの配布、校内集会や学外デモに参加するなど一切やっていなかったそうだ。友人は「日本の左翼も最高幹部になるには昔の「科挙」 (注8) 合格者のように有名大学出身であることが不可欠という前提があるのね」と笑っていた。
 友人は、「自分は何とか志望校に合格し、念願の研究者になれたから笑えるが、あのような成績低迷の"ご指導様"に人生を狂わされた人もいたよな」と笑っていた。
ベトナム戦争は、共産主義の侵略か否かはともかく、アメリカがベトナム人民の支持を得られなかったことは確かですが、その後の中越戦争や、家産官僚的 (注9) な国家体制を考えると、このグエン・バン・チョイが解放戦線の秘密工作員としてテロルを計画し、処刑されたことが、それほど英雄的なものであったとは思えません。

3. 科挙と『革命』

(1)太平天国の乱

古くは後世「詩聖」とされる詩人杜甫(712~770)が、科挙の試験を何度も受験したが、ついに合格しなかった。・・・・太平天国の乱は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。その首魁洪秀全は、度々院試(科挙の初期段階の試験)に失敗したため、約40日間病床に臥せって、その間不思議な夢を見たという。「上帝ヤハウェと思われる気品漂う老人から破邪の剣を与えられ、またイエスらしい中年の男から妖を斬る手助けを受けたというものだった。」という。太平天国の乱は、洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を標榜し、平等をうたい文句とした「太平天国」という組織によっておこされたが、太平天国は皮肉にも支配領域を安定させた途端、内紛権力闘争が生じて弱体化し、1870年代にはほぼ鎮圧された。

(2)科挙の万年受験生

短編エッセイ『吶喊(とっかん)』には、科挙に受からず落ちぶれて飲んだくれの懶け者になった男「孔乙己」、また「白光」と題する小説は科挙試験に何度も挑戦(16 回目)しても不合格で終わり、「冷たい風が彼の白髪混じりの短い髪をなびかせて吹き渡ったが、」、一生を賭けた官吏登用試験で思い描いていた出世コースの計画が絶望的になった「陳士成」という人物が登場。やがては絶望のあまり精神に異常をきたし、深夜に月明かりの中、白い光を見て宝探しを始め、遂には白光に誘われて溺死してしまうまでが描かれている。科挙に合格できれば、裕福な生活と出世が望め、皇帝に直接仕える官僚~エリートになれ、官僚になると、家が三代まで栄えた。合格しないといつまでたっても出世の道は閉ざされるが、一族の期待も大きくかかり、なかにはプレッシャーに負けて、発狂や自殺する受験生までいたという。
魯迅は、「当時は読書して科挙の試験に応じるのが正しい道筋で、いわゆる洋学を学ぶ者は、路なき道に入る人で、霊魂を幽霊に売渡し、人一倍も疎んぜられ排斥されると思った」と魯迅は言う。
「阿Q正伝」では、このような人物を"阿Qは、・・一途に彼を「偽毛唐(けとう)」「外国人の犬」と思い込み、彼を見るたんびに肚(はら)の中で罵ののしり悪(に)くんだ"と描いている。

4. 虎狼の心 (注10) より恐ろしい目

「阿Q正伝」の圧巻は有名な、革命党を名乗る強盗の一味として死刑判決を受けた阿Qが刑場まで引き回されるシーンである。

『車が通る道沿いには大勢の見物人が押しかけてきた。その中には手を出そうとしてこっぴどい目にあった下女の姿もあった。見物人を眺めていると、それらの目が、以前山の中で出くわした狼の目を思い出させた。ところが、今回はそれよりも恐ろしい目が、阿Qを取り囲んでいる。「それらの目どもは、スーッと、一つに合わさったかと思うと、いきなり彼の魂に噛みついた」のである。』
 これは魯迅がかつてスライドで見た「ガッチリした体格ではあるが、気の抜けたような顔」の「露西亜(ロシア)のために軍事探偵を働き、日本軍にとらわれ、ちょうど今、首を切られて示衆(みせしめ)となるところである。囲んでいるのは、その示衆(みせしめ)の盛挙(せいきょ)を賞鑑(しょうかん)する人達である。」という光景を重ねていることは明らかです。そして「およそ愚劣な国民は体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである」という。
「狼の目よりも恐ろしい目」とは、精神的・物理的に共食いをする人々のまなざしでしょうね。 小泉信三氏が、「憎嫉(ぞうしつ)は元来人間の恥ずべき弱点である」とし、そのうえ「他人の富貴を羨むべく、他人の栄華の憎むべき事を説く学説が、いかに人心に投じ易いかは、想像に難くない。」 (注11) というのは、やはり「前近代性」を引きずっている人々に対する危惧を表わしていたのかもしれませんね。
吶喊の中の『狂人日記』は周囲がカニバリズム(人食趣味)の持ち主であり、彼等がやがて自分を食らうのではないかという妄想に取り憑かれた男の話で、このなかで主人公が強迫観念にとりつかれる食人という、旧弊である非人間的な道徳観念だけでなく「狼の目よりも恐ろしい目」で他人を見る精神を糾弾していたとおもいます。
私は、ベトナム戦争はベトナム側の正義があったと思っているが、グエン・バン・チョイの公開処刑を見る民衆のまなざしは、「阿Q正伝」のそれとあまり変わらなかったと思います。

5. 寂寞の中に馳かけ廻る猛士 (注12)

魯迅の「吶喊序」を読むと「寂寞」という言葉が出てくる。これを「じゃくまく」と読むか「せきばく」とよむのかいまだにわからない。
この言葉を魯迅が「もの寂しさ,寂しみ,淋しさ」というだけの意味に使っているとはおもえず、昔からなぜか「じゃくばく」と読んでしまいます。
魯迅は当時の中国社会のなかで「凡(すべて)一人の主張は、賛成を得れば前進を促し、反対を得れば奮闘を促す、ところが爰(ここ)に生人(せいじん)の中うちに叫んで生人の反響なく、賛成もなければ反対もないと極(きまって)みれば、身を無際限の荒原に置くが如く手出しのしようがない。これこそどのような悲哀であろうか、わたしがそこに感じたのは寂寞である。」という。
「阿Q」のようなとりえもない人物が「革命党」の真似事をし、「狼の目」より怖い民衆のまなざしの中で処刑されていく姿や、栄達の道であった科挙の万年受験生の落ちぶれた姿や、狂気の中で死んでいく姿を描くことで、「寂寞」を感じざるを得ない世界を描き、「寂寞の中に馳かけ廻る猛士」たるべしとしたのでしょう。
このような社会では左翼活動家の生き様は、たいして社会の一員として仕事もせず適当に「反対」と叫んで「念仏踊り」をしたり、知ったかぶりをして適当に権力批判をスイスイダラダラやって時間を潰していれば、メシはくえる、ても、粛清される心配も無い、『スーダラ節』の世界なのでしょうか

(注1):
魯迅「吶喊」原序別ウィンドウで開きます
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(注2):
『スーダラ節』 1961年のハナ肇とクレージー・キャッツの流行歌 当時のサラリーマンの生き様の皮肉。会社へ出て来て、たいして仕事もせず適当に時間を潰していれば、給料は出るスイスイダラダラやっていても、首になる心配も無い・・・・・そんな背景で、「1番が酒、2番がギャンブル、3番が女、いずれも失敗談」
(注3):
漢字では「安本丹」という当て字の江戸時代から存在する「阿呆」「愚か者」を表わす言葉のもじり
(注4):
作詞 CHE SARA/TOKIKO IWATANI 作曲 JIMMY FONTANA
なおケセラセラ (Que Sera, Sera) は、ヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌でドリス・デイの1956年の歌曲である。
(注5):
グエン・バン・チョイはベトナム南部農村の出身で、共産青年同盟に入り南ベトナム解放民族戦線の秘密工作員。1964年10月、サイゴンを訪れたマクナマラ米国防長官を暗殺しようとサイゴン川にかかる橋に爆薬を仕掛けようとして逮捕され公開処刑された解放戦線の英雄。
(注6):
ジョー・ヒル(~1915)は、スエーデン出身の「愛とさすらいの青春 ジョー・ヒル」(1971年)という映画で紹介されたターフト・ハートレイ法以前の1905年にシカゴで結成された労働団体 IWW (Industrial Workers of the World 世界産業労働者同盟)の中心的ヒーローとされる。替え歌で労働運動を提唱するフォーク・シンガーの元祖であり、労働運動の活動家。ジョー・ヒルは雑貨商殺しの容疑者として逮捕され処刑される。
1919年に結成されたアメリカ共産党の膨大なアーカイブには、彼は処刑前夜に書いたジョー・ヒルの手書きの遺言が含まれています。
(注7):
ビクトル・ハラ(1938-1973)は、中南米チリのシンガーソングライターで、チリ共産党幹部としてアジェンデ人民連合政府を支え、軍事クーデター直後に軍隊に拘束されクーデターに反対する活動家や市民が収容されたスタジアムで虐殺された。
チリの「民主革命」とやらについてはColumn Vol.25をご覧ください。
(注8):
科挙(かきょ)とは、中国で約1300年、(598年~1905年まで)隋から清の時代まで、行われた官僚登用試験、明代朱子学が基準とされ、永楽帝はそのために、四書大全と五経大全を編纂させた。これらは『四書』と『五経』を朱子学の説によって解釈した注釈書で、以後中国と朝鮮で科挙試験の解釈の基準となった。
(注9):
マックス・ウェーバーが定義した官僚制の分類
専制的・独裁的な権力を持つ支配者に従属する行政スタッフが、制定法に基づくのではなく、この支配者の恣意的な命令・意向に基づいて私欲を実現しようと行動する。
(注10):
史記 項羽本紀 鴻門之会で「夫秦王(始皇帝のこと)有虎狼之心、殺人如不能舉」と「虎や狼みたいに残忍、残虐な心の持ち主だ」ということ
「史記・史記賈生列伝」には「秦、虎狼の国、信用できない。」と屈原が諌めた。諸国が連合して楚を責めそのとき秦王は助け舟を出すふりをして、懐王との会見を求めてきた。屈原は「秦は虎狼の国であり、信用できません・・・・、」と忠言したが、懐王は秦に出かけてしまった。その後懐王は楚に戻ることなく、秦の地で憤死する。
(注11):
Column Vol.3をご覧ください。
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(注12):
前掲魯迅「吶喊」原序
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